第293話

「桐子……」


 深々と頭を下げる姿に、広瀬は呆然とする。それは伊織も、一花も同じだった。

 そして文哉も、桐子に遅れてそれに倣った。


 何分そうしていただろうか、突然ダン! と、大きな音が響いた。

 裕之が壁を殴りつけた音だった。


「違う……! こんなんじゃない、こんな、簡単なことじゃないんだ。俺は……」

「川又さん、両親が、申し訳なかった」


 立ち上がった文哉が、もう一度裕之に頭を下げた。


「事件の経緯を、俺は後で調べて知っていた。両親ならやりそうなことだと思った。ただ、実際に何をしたのか、そのことであなた方がどんな目に遭ったのか、は、今日初めて知った……。申し訳ない」


 謝罪を繰り返す文哉の姿に圧倒された室内に、再び大きな声が響いた。


「に、にいさん……」


 友梨の怯えたような声に裕之が振り返る。

 そして、目の前の光景に頭が真っ白になった。


 二十年ちかく意識が戻らなかった一成が、桐子へ向かって手を伸ばしていたのだった。


 驚いたのは二人だけではない。桐子は、川又兄妹とは違う意味で驚いて、そして反射的に怯えてしまった。

 思わず後辞さる桐子を、広瀬が支える。


「ご……ん、さい」


 掠れた小さな声が聞こえる。桐子が思わず、え? と聞き返した。

 一成はもう一度、微かに屈みこんで口を開いた。


「ごめん、なさい」


 それだけ言って、また目を閉じてしまった。


「兄貴、兄貴!」


 裕之は気が動転し、転びそうになりながら車いすにしがみつく。とっさに手首で脈をとるが、静かに動いているのを確認出来たので、安堵して脱力する。

 松岡が電話を操作しながら近づいてきた。救急車を呼んだらしい。一成の状態を質問に沿って答えてから、電話を切った。


「とりあえずこの人だけでも病院へ戻せ。どうせあんたらが無理やり連れだしたんだろう。こいつに謝らせたんだ、お兄さんの役割はもう終わったんじゃないのか?」


 にいさん、と縋る友梨と二人で頷いた。松岡は石橋に事の次第を伝え、救急隊が来たらすぐにここまで入ってこられるよう準備を頼んだ。


 桐子は驚き過ぎて、へたり込んで動けなくなっていた。背中が温かいことで、広瀬がずっと支えてくれていたことに気がついた。


「ありがとう……」


 広瀬も、うん、と頷いて、体を離した。


◇◆◇


 救急車が来て、一成と、付き添いで友梨が同乗した。


「あんた、一緒に行かないのか?」


 剣が裕之に問う。裕之は剣ではなく文哉を睨みつけた。


「まだ全部終わってない。文哉さん、あんたの殺人容疑が残ってるんだよ」


 再び場が凍る。裕之は松岡へ目を転じた。


「最高刑が死刑に相当する重罪は、時効が撤廃されていますよね。ということは……文哉氏はまだ罪に問われるのでは?」


 松岡はため息をつきながら頷いた。


「事実が証明されれば、そうなるな」


 裕之は嬉しそうに文哉へ向き直った。


「だ、そうですよ。警察までご一緒しましょうか?」

「お待ちください」


 意気揚々とした裕之の声にかぶさるように間に入ったのは、救急車を見送ってから戻ってきた石橋だった。


「差し出がましい振舞をお許しください。文哉様には罪はございません」

「……世話人さん。長く仕えたご主人様が犯罪者になるのが悲しいのは分かりますがここはご本人が認めていることですから」

「確かに、文哉様は先代ご当主の車に細工をなさいました。そしてそれは、友人の水島がすぐ元へ戻しました」

「……は?」

「あの事故は、本当に偶発的な事故だったのです。文哉様は関係ありません」


 二転三転する経緯に、一花と伊織は顔を見合わせる。それは桐子たちも同じだった。


「そ……そんなの、それこそ証拠がない!」

「いえ、ございます」


 そして石橋は一通の手紙を差し出した。


「弁護士の水島とは旧い友人でした。彼は亡くなる前に私にこれを託しました。いずれ、文哉様が自ら罪を告白したときにお渡しするように、と」


 ひったくるようにして手紙に飛びつく裕之をよそに、石橋は文哉に頭を下げた。


「世話人として長くこちらにお世話になり、今まで本当にありがとうございました」

「石橋さん……」

「思い出深いお屋敷が取り壊されるのは残念でなりませんが、お二人のお苦しみに勝るものではありません。どうぞ、全てを文哉様にお任せいたします」


 読み終えた手紙を床へ叩きつけた裕之は、落ち着きなく歩き回る。

 そして再び桐子を糾弾し始めた。


「あんた、そうだよ、あんただ! 旦那がいて、子どもがいて、それなのに愛人作って、その愛人を自分のドラマの主役にしていい気なもんだな!」

「それは……」


 何も言えない桐子に変わって、広瀬が口を挟んだ。


「それこそあなたたちには何の関係もない。僕たち家族の問題だから、心配は無用だよ」

「ふざけるな! そうだ、このネタを全部週刊誌にばらしてやる。格式ある名家のねや話なんて暇人たちがすぐに飛びつくだろうな!」

「その前にこっちと話をしてもらえるかな」


 突然、廊下から大人数が駆け込んできて、裕之を囲んだ。


「麻薬取締法違反、詐欺、公文書偽造の容疑で逮捕状が出ているよ、川又裕之さん」

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