第292話
「でも兄貴もバカだった。大事な一人娘を汚されれば一矢報いることが出来るだろうというのは、普通の家庭なら通用する。でも千堂家では……ただのお荷物だった。そんなものをどれほど踏みにじられようと、あの夫婦は毛ほども気にしなかったんだ」
「兄貴が抗議しに行ったときにはすぐに警察を呼んだくせに、あんたを襲った犯人は捜査させなかった、なんてすごい話だな。でも裏で人を使って俺たち一家を突き止めた。そして、何をしたと思う?」
裕之の血走った眼は、桐子には傷だらけの心を映しているように見えた。
「金を払ったんだ。退職金と口止め料だ、っつってな。これで我慢しろって、全部忘れろってさ。……金に困ってた親父たちはすぐに飛びついた。でも、一千万なんて、あんたらにしたらはした金だったろうな」
怯えるだけの桐子に腹が立って、裕之は思わず手を振り上げる。それを止めたのは伊織だった。
伊織を振り払うと、裕之はまた話し始めた。
「金で全部罪を背負わされて、周りから白い目で見られて、俺たちは生活していけなくなった。ある朝起きたら両親は消えていたよ。兄貴と、俺と、友梨をボロアパートに置き去りにしてな」
「兄貴は俺たちのために朝から晩まで働いた。あんたたちの親のおかげで、暴行の件は立件されていないから、犯罪者扱いはされなかった。だから底辺の仕事なら困ることはなかった。そこだけは感謝したほうがいいか?」
「そして、兄貴は仕事中に事故に遭った。金欲しさにほとんど寝ずに肉体労働していれば、事故のリスクなんて普段の何倍も高かっただろう、不思議じゃないな。今でも……意識が戻らない」
驚いたのは桐子だけではなかった。文哉も、ずっと川又一成の行方を調べていた。それが、意識不明のままどこかにかくまわれていた、ということだろうか、と。
そして奥の襖が静かに開いた。
車いすに乗せられて、色んな機械や管が繋がれた状態の男が一人、現れた。
「文哉さん、あなた、兄を探していたでしょう。……ここにいますよ」
誰も、何も言えず、動けなかった。裕之は一成の車いすの横へ跪いて、その動かない手を取った。
「兄さん、千堂兄妹だ。連れてきたよ。……わかる?」
無論、一成は微動だにしなかった。
裕之は文哉の腕を掴んで桐子と一緒に一成の前に引きずり出した。
「謝れ!」
そして二人の頭を押さえつけて、床へこすりつけた。
「兄貴の……俺たちの一生を台無しにした罪を認めろ! そして、償え!」
「いい加減にしろっ!」
ゴン、と固いものが床にぶつかる音がしたところで、剣が裕之にとびかかった。
「おい、田咲!」
「田咲さん!」
松岡と伊織が止めようとしたが、それより剣の動きのほうが早かった。
「俺は他人だよ、蚊帳の外だよ、桐子さんにとったらただの暇つぶしだよ。そんなのわかってる! でもあんたの言い分だっておかしいだろ!」
桐子が剣のズボンのすそを力なく引っ張る。しかし剣は裕之を引きずる力を緩めない。
「見てらんないよ、こんなの……。桐子さんも、香坂さんも、伊織くんも、みんな何も言えないのをいいことに、ここまでやる必要あるのかよ!」
「ふざけんな!」
裕之が自分より上背のある剣を突き飛ばした。
「ここまで?! 今まで俺たちがどんな思いで生きてきたのかわかるか! それを知りもしないで正義漢ぶるな! たった一日で勘弁してやろうって言ってんだよ!」
「だからそれがおかしいだろう!」
もう一度剣が裕之につかみかかった。そのまま壁に背中ごと押し付ける。
「本当に恨み晴らしたいなら、他にやり方があるだろう! 大体、あんたらの不幸の元は桐子さんたちの親なんだろ?! 二人に謝らせてどうするんだよ! 二人を見ればわかるだろ、逃げるつもりなんて一切ないよ。あんたたちが償ってほしいって言えば、ちゃんと正面から向き合ってくれる人たちだって、なんでわかんねえんだよ!」
「剣くん、もういい、ありがとう、本当に、ありがとう……」
桐子は這うようにして剣たちの元へ寄り、その激情を収めようとした。
そしてふらつきながら立ち上がり、一成の前に膝をついた。
両手を揃え、その上に額をつける。
「大変、申し訳ありませんでした……」
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