第291話
放り出されるように舞台に引っ張り上げられた桐子は、蹲ったまま動かない。その体をまたぐようにして立った裕之は、桐子に向かってだけ話し始めた。
「あんたは自分には何の落ち度もなく、不幸な事件の被害に遭った犠牲者だと思ってるだろう? だからいつまでも不幸者の仮面をかぶり続けて、夫を利用して、兄に甘え続けて、愛人で気晴らしして……。本当は何があったのか、一度でも知ろうとしたことはあったか?」
肩で息をする桐子は答えない。
「さっき俺が言ったよな、あんたの兄貴は、あんたを虐待する実の両親を手にかけた。それもあんたのためなんだよ。でも知ってたか、それを? あのタイミングで両親が他界したのを、ただの偶然だって、まさかそう思ってたのか?」
広瀬は今にも飛び出して行きそうな伊織を押さえた。
「あんたが何一つ真実を知ろうとしなかったのは分かってた。妹が、友梨がテレビ局で自己紹介しただろう。その名前を聞いて、何も反応しなかったんだってな。兄貴のほうは、文哉氏は俺が偽名だってことまで気づいてたのにな。文哉氏は、あんたのために罪を犯して、あんたのために全部被ったんだよっ!」
裕之は脚を持ち上げ、ダン! と振り下ろした。再び一花の悲鳴が響くが、桐子の体の脇にふみ下ろされていて、桐子には当たっていなかった。
「俺の本当の名前は川又裕之。妹は川又友梨。俺たちの上には、もう一人兄貴がいるんだよ」
堪りかねた文哉が小さく呻く。
「川又一成……。ここまで聞いてわかんねえか? 中坊のあんたを路上で犯した犯人は、俺たちの兄貴だ」
桐子は驚いて身を起こし、自分の上にいる裕之を見上げた。
一気に記憶が巻き戻る。
夕暮れの、雨が降り続ける路地に引きずりこまれたときの記憶が、今までなかったほど鮮明に甦った。
声にならない悲鳴をあげ、桐子は気を失った。
◇◆◇
「桐子、桐子!」
慌てて駆け寄った広瀬と伊織は、桐子と裕之を引き離す。紙のように白い顔色の桐子を抱き上げ何度も名を呼び続けると、ゆっくりと桐子が目を開いた。
「ママ、ママ? 聞こえてる?」
伊織の呼びかけに反応して、桐子はゆっくり瞼で返事をした。
その様子をみてホッとしたのと同時に怒りを膨らませた剣が立ち上がる。しかし裕之がおどけて押しとどめた。
「はいはーい、愛人さんたちはそこから動いちゃだめでーす。そこから先はやんごとなき一族だけの世界ですからね。あんたたちや俺たちみたいな下々の人間の正義は通用しません。黙って聞いていてくださいね」
コホン、と芝居がかった咳ばらいをすると、裕之は再び語りだす。
「その昔、千堂家が経営する企業の子会社を任されている男がいました。これがまた小さな男でね、そういう人間にありがちな、欲ばかり強くて己の器量を顧みない小心者です。ただ千堂家の一族の端っこにひっかかっている、ということだけが自慢のクズでした」
裕之はポケットからおもちゃのような眼鏡を取り出してつけた。
「ある時その男はミスをしました。いえ、本当につまらない些細な失敗です。しかし人間が小さいと、ミスも大きな不祥事に見えてしまうのでしょう。もみ消しを本家当主へ願い出ました」
「先代ご当主はプライドだけは一丁前な……失礼、誇り高い人物だったようですね。一族から不始末を出すわけにはいかない、と、希望通りにもみ消しを図ります。なんということはない、小男がやったことを、他の人間に
松岡はチラリと文哉を見遣る。しかし松岡のいる場所からは、表情までは読み取れなかった。
「無実の罪を着せられた人物は、弁解も許されず即日懲戒解雇されました。社宅は追い出され、退職金ももらえず、同僚たちからは手のひらを返したようにそっぽを向かれました。……俺たちの親父だよ」
桐子は広瀬の腕の中で目を見開く。その顔を、裕之は満足げに眺めた。
「兄貴は怒った。何度も本社へ、千堂本家へも抗議しに行った。でも全く相手にされなかった。終いには警察に通報までされた。追い詰められた兄貴は、別の方法で復讐を図った」
裕之は伊織を押しのけて、桐子の鼻先まで顔を近づけた。
「あんたは被害者なんかじゃない。加害者の娘なんだよ」
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