第290話
文哉は、その時を回顧していた。
桐子の病院から戻ってきた文哉は、両親の楽し気な笑い声に違和感を感じた。
何をしているのかを聞くと、週末に友人の誕生日を祝うために郊外へ旅行へ行く、という。
文哉は愕然とした。
「何を言ってるんです……桐子が大変な時に。犯人だって、まだ捕まってないんですよ!」
「私たちがいてもいなくても同じだろう」
「全く、桐子も楽しい気分に水を差してくれたものだわ。あの子の近くにいるとこっちまで黴が生えそう。リフレッシュくらいしないと身が持たないわ」
両親の言い草は、常と変わらなかった。今まで何百回となく聞いてきたのと同じそれは、文哉の心の引き金を引くのに十分だった。
文哉は何も言わず自分の部屋へ向かう。そして顧問弁護士の水島に電話を掛けた。
『文哉君か、どうした?』
「先生、俺、決めました。……両親を、殺します」
『な、んだと? おい、待ちなさい、今どこだ、おい、文哉君!』
水島の声が終わらないうちに、受話器を置いた。
◇◆◇
「俺は、両親が旅行へ行くときに使う車に細工をした。ブレーキの効きが悪くなるようにね。そしていつもの運転手には別の用を言いつけて両親に同行させないようにした。父は彼を一番信頼していたから、彼が運転出来ないなら自分でハンドルを握るだろうと思ってた。実際、そうなった」
松岡は事故当時の新聞記事を思い出す。視界良好な道なのに、夫妻が乗った高級外車は崖下へ転落した。
「なんとまあ、子どもらしいちゃちな仕掛けでしょうか。しかし幸か不幸か、成功してしまった。それさえなければ、今日のような悲劇は起こらなかったかもしれないのに……そう思いませんか? 次期千堂家当主、伊織くん」
大げさでおどけた裕之の場違いな声が響き渡る。唐突に名を呼ばれて伊織は慌てた。
「ああでも、君にとっては棚ボタですよね。大手一流企業とはいえ、一会社員に過ぎない今の父親よりも、資産数千億の本当の父親の後を継ぐほうが遥かに幸運というものでしょう」
伊織は怒りの全てを込めて裕之を睨み返す。しかし裕之は笑って受け流した。
「……本当の父親?」
思わず漏れた声に、全員が振り返る。松岡が慌てて剣を小突くが、遅かった。剣も自分の口を押える。
「す、すみません、部外者が」
「こいつのことは気にしないでくれ」
しかし広瀬が、構わない、というように頷いた。
「伊織は、俺の子ではありません。義兄と……桐子の子なんです」
剣はもう一度驚いて息を飲む。桐子を見れば、下を向いて震えていた。
文哉を見て、もう一度伊織を見る。言われてみれば、広瀬よりもずっとよく似ていた。
一花の文化祭の時、文哉を桐子の夫と勘違いしたのは、そのせいだったのか、と、自分なりに納得した。
しかし裕之は不満げな声を上げる。
「あれ? おかしいですね、驚くのは田咲さんだけですか?」
裕之は再び一座を見回す。
「まさか、皆さんご存じだったと? この悪魔の所業を? その上で、家族のふりをして一緒にいるわけですか?!」
ハッ! と吐き捨てるように嘆息した。
「さすがですな! 名のあるお家柄というのは、清も濁も合わせ呑むのですね。いや、千堂家に清があるとは思えませんが。じゃあ我々のやったことは意味がなかったかな? しかしそれもまた納得できない。だってそうじゃありませんか。実の兄と体を重ねることと、見ず知らずの赤の他人に抱かれるのと、どちらが罪が重いのでしょうねぇ?」
そして静かに桐子へ歩み寄る。小さくなって震えている桐子を強引に立たせると、そのまま舞台の上まで引きずっていく。
「やめろ!」
思わず剣が止めに入ったが、裕之は無視する。代わりに友梨が剣の口を後ろから塞いだ。
「たかが愛人風情が口を挟まないで。とにかく最後まで聞きなさい」
剣は目をむいて振り返り友梨を睨む。しかし友梨は嫣然と微笑み返し、目で舞台を指した。
「さあ、憧れの桐子先生の初舞台よ」
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