第289話

<兄さん、私、流産なんてしてないわ。きっと赤ちゃんいるわ、絶対そうよ>

<ああよかった、やっぱり生きててくれたのね……。嬉しい、私の赤ちゃん>


 先ほどより大人びた表情に変わった友梨は、セリフから、転落事件前後と分かった。友梨の表情の柔らかさは聖母のようで、伊織は一瞬見惚れた。

 そしてそれは、母の喜びを演じているものだということに思い至った。


「……親に愛されず、兄の愛だけを頼りに生きてきた桐子嬢は、その血筋と家の財力と兄の尽力で守られ続けながらも、自分はこの世で一番可哀そうな女だと思い込みながら生きてきました。自分など誰からも愛されない、愛してくれるのは兄だけだと」


 照明装置があるわけではないのに、まるで友梨にスポットライトが当たっているようだった。


「しかし桐子嬢は、大学時代に奇跡の出会いを果たします。のちの夫、香坂広瀬です。しかし香坂青年は、まさか自分の恋人が真実愛している人間が他にいることなど想像もしないまま、一人で愛をはぐくんでいきました」


 友梨は痛ましげな目を広瀬へ向けた。


「真面目で品行方正、男女問わず人気者だった香坂青年と、名門の令嬢の恋物語は周囲の憧れの的でした。誰もが応援してくれた。だから、まさかすぐ近くに恐ろしい敵が潜んでいたなど、思いもよらなかったのです」


 そう言うと、深く頭を下げた。


 そして、友梨の後ろから裕之が姿を現した。


◇◆◇


<お父さん、お母さん! どうして桐子を外へ出すんですか! 外は雪ですよ!>

<またお母さんに怒られたのか……。こっちへおいで、桐子>

<そんな……桐子は、被害者なのに……>

<まさか、みんな、お父さんとお母さんのせいだったのか?>


 裕之の演技は友梨ほどの迫力はなかったものの、セリフから、演じているのは過去の文哉だと分かった。

 その言葉の端々から、友梨が語ったように、桐子を守ってきたのは文哉だけだと分かる。


 引き込まれ続ける観客の前で、裕之の目つきが変わった。


<桐子が病気なのに、怪我も治ってないのに、見舞いに来ないだけじゃなく、旅行、だと……?>


 文哉はそのセリフにハッとして目を開ける。まさか、裕之たちがあの事まで知っているというのか。


<許さない……そうだ、あの二人は許されないことをした、これからも、ずっと……生きている限り、桐子は救われない>


 地の底から湧き上がるような低音から強い憎しみが伝わってくる。

 次の瞬間、部屋の隅に置かれたスピーカーから、派手な衝突音が鳴り響いた。驚いた一花は悲鳴を上げる。


<これでいい、もっと早くこうすればよかったんだ。お父さん、お母さん、さようなら>


 文哉役の裕之は、この上なく晴れやかな笑顔を浮かべながら、一筋の涙を流し、目を閉じた。

 呆気にとられ、何かを問いたげな観客の目は、はじめは裕之に、次に文哉へ向けられた。


 再び目を開けた裕之が語り始める。


「文哉氏は、どうしても許せなかったのです。最愛の女性を苦しめ傷つけるだけの両親を。たとえそれが二人にとって血のつながった唯一無二の両親だったとしても。存在している限り、桐子嬢の心を踏みつける存在を、この世から抹消することを選んでしまったのです」


 スポットライトが、文哉を照らしているように見えた。


「パパ……、どういうこと……?」


 端然とした姿勢を崩さず、膝に手を置いて真っすぐ前を見据える文哉は、一花の声にだけ反応した。


「この人の言う通りだ。俺が……二人を死に追いやった」

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