第283話
翌日の午前中に、看護師に手伝ってもらって広瀬は四人部屋へ移動した。
空いていたのが窓際のベッドで、同室の患者も年配者ばかりだったのでホッとした。
隣は広瀬より二回りは年上と思われる老人だった。
「香坂と申します。よろしくお願いします」
「横田いいます。よろしゅうお願いします」
白髪頭の男性は、読んでいた新聞から目を離して広瀬に挨拶を返した。
「まだお若いのに、大変やね」
若い、と言われて広瀬は苦笑する。ちょっと仕事で無理をしまして、と誤魔化すと、納得したように頷かれた。
「こんなむさくるしいところに長居しちゃあきまへんで。はよ元気になって退院できるようにね」
「横田さんは、関西の方ですか?」
「せや。と言うてももうこっちへ来て四十年経つけどね。言葉は変わらんね」
横田と談笑していたところへ、桐子が荷物を持って入ってきた。同室の患者に挨拶をして回る。横田のベッドへもやってきた。
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
「横田です。これはご丁寧にどうも」
微笑んで頭を下げると、桐子は広瀬のベッド脇の棚に私物を仕舞い始めた。
「はー。綺麗な奥さんやね」
感に堪えぬように嘆息する横田に、広瀬は無理やり笑みを作って返した。
無言で片づけをし、家から持ってきたらしい数冊の本や書類を、広瀬が取りやすい場所へ置く。入院しているとはいえ、体は普通に動かせる。場所柄インターネットを使っての仕事のやり取りは出来ないが、書籍や書類に目を通すことは出来ると思っていた。
「へえ、これ、新刊出てたんだね。知らなかったよ」
書店のビニール袋から真新しい単行本を取り出しながら感心したように声を上げる広瀬に、桐子は少し顔を背け、伊織から教えてもらったことを伝える。
広瀬は、そう、と頷いただけだった。桐子が自ら気づいてくれたわけではないことに、ガッカリしている自分に苦笑した。
追加で買ってきてほしいものを伝えると、桐子はメモを取って病室から出ていった。
それを見届けるように、横田が広瀬に話しかけた。
「……浮気か?」
唐突過ぎて広瀬は自分に向けられたものだと分からなかった。しかし横田がじっと見つめてくることに気づいて、恐る恐る顔を向けた。
「あんな別嬪ならしゃあないか」
「そんな……」
「見たところ、香坂さん、真面目そうやし、仕事が忙しくて奥さんほったらかしてたんとちゃうん?」
あまりにありきたりで馬鹿馬鹿しい想定に、広瀬は返事をする気になれず顔を背ける。
(浮気なんて……そんな単純なものじゃない)
文哉とのこと以外にも男の存在があったことは広瀬に追い打ちをかけた。ギリギリ繋ぎかけていた何かを断ち切られた。
しかし、もし松岡たちのことだけだったら、自分はここまで苦しんだだろうか。
そして松岡や剣だけなら、桐子はもっと明確に分かりやすく後悔してくれたのではないだろうか。
文哉だから。
桐子の未だ煮え切らない様子は、そのせいではないだろうか。
「浮気は許しちゃいけへんし」
再び話し始める横田を、広瀬は片耳で聞き続ける。
「どうするか決めるのは、浮気されたほうやで」
「……どうして、そんなこと」
「わしも経験あるからね」
驚く広瀬が何か言う前に、横田は横になって目を閉じてしまった。
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