第282話
手続きを終えた桐子が病室へ戻ると、広瀬が起きて伊織と話していた。桐子は自分が声をかけていいのか、とためらったが、それは逃げでしかなかった。
「病室、どうする? 個室も空いてるって言われたんだけど」
広瀬は桐子を見ずに首を振った。
「一人きりじゃ気が滅入るよ。大部屋は空いてないのかな」
「四人部屋に空きがあるらしいわ」
「じゃあ、そっちを頼むよ」
桐子は再び外へ出ていった。
伊織はその後ろ姿に微かに憐れみを感じつつ、しかしそれも仕方がないことも分かっていた。
「大部屋なんてうるさくね? 親父、いっつも本とか読んでるじゃん。集中出来ないんじゃないの?」
「いいんだ、今はね。……もう時間も遅いから帰りなさい。お前、明日も学校だろう?」
「あー、そうだ、今日サボったしなぁ……。めんどくせ」
「休みたいなら休んでもいいぞ。お前、風邪以外で学校休んだのなんて初めてだろう?」
実は親に隠れて数回サボったことがあるのを隠して、伊織は頷く。それに昨日と今日で色んなことがあり過ぎて、とてもじゃないが学校の授業になど集中出来そうにない。だが家にいて、母と二人なのも息が詰まりそうだった。
「いや、やっぱ行くよ、学校。それとさ、親父に頼みがあるんだけど」
「ロンドンに行かないって話か?」
「そっちは一旦保留。そうじゃなくて……ママのこと」
広瀬の顔が強張る。今一番聞きたくない、そして頭から離れない名前だった。
「さっき、ママに甘えたらいい、なんてふざけた言い方したけどさ。入院中の親父の世話、させてやってほしい。許さなくていいし、話もしなくていい。言いたいことがあれば俺から伝える。会社への連絡とか、読みたい本があったら取りに行かせるとか、そんなんも全部」
「どうして……」
「そうしないと……本当にママ、どっか行っちゃうだろ」
広瀬はすぐに返事が出来なかった。桐子への屈折した感情を持て余していた。正直、広瀬自身も明日からどうすればいいのか決めかねていた。
「でも……お前は平気なのか、ママが、このまま家にいても」
「平気か、って言われると……うーん、平気じゃないけど」
「無理しなくていいんだぞ」
「じゃ、ママのこと追い出すの? 多分だけど……伯父さんを頼るよ、きっと」
広瀬はため息を吐く。それは容易に想像出来る流れだった。
「二人への嫌がらせとか罰とかそんなんじゃないんだ。俺は今は、ママを伯父さんに渡したくない。ママに逃げてほしくない。そのためにも、親父の看病をさせてあげてほしいんだ」
「胃潰瘍じゃ、そんなに長い入院にはならないだろうけどな」
そこまで言ってからハッとした。昼の、川又友梨が持ってきた怪しげな招待状の件を思い出したのだった。
「伊織、明日学校が終わったら、一つ頼みがあるんだ」
ん? と覗き込んでくる伊織に、二つの頼みごとをした。
その時に、病室移動の手続きを終えたらしい桐子が戻ってきた。
◇◆◇
タクシーで家に戻った桐子たちは、冷え切った食事を温め直して簡単に夕食を済ませた。
伊織に風呂を勧め、桐子は広瀬の部屋で彼の持ち物と確認する。
寝室は同じにしているが、桐子が自宅で仕事をすることもあり、寝室以外に自室を持っていた。
夫の部屋には普段から掃除や洗濯物をしまうくらいしか入ることが無かったため、改めて見回すと不思議な新鮮さがあった。
しかし、一緒に住む夫の部屋を『新鮮』と感じている自分が情けなかった。
「ママ、お風呂空いたよ」
伊織に声を掛けられてハッとする。まだ広瀬の荷物の準備が出来ていなかったので、先にこちらを済ませると言って片づけを再開した。
伊織は自室へ戻らず、広瀬の部屋に入ってきた。
「最近親父がハマってるのは、このシリーズだよ。新刊も出てるから、買って届ければ?」
伊織は広瀬の本棚から数冊の単行本を抜き取って桐子に渡した。自分より伊織のほうが広瀬をよく知っていることに再び落ち込む。
「ママ、これからどうするの?」
伊織の問いかけに桐子は返事が言葉に詰まる。
「親父と……離婚するの?」
「それは……」
「ママのことだから、自分がいなくなるほうが俺や親父が幸せになるんじゃないか、って考えてるんだろ」
伊織の目が厳しくなる。
「俺や親父を言い訳にしないで、今までやってきたことに対してどうするのか、しっかり考えて。あと、さっきも言ったけど、親父の世話は頼んだよ」
桐子は広瀬の部屋に座り込んで、しばらく動くことが出来なかった。
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