第281話
「一花!」
背後から文哉が自分を呼ぶ声が聞こえるが、一花は振り返らなかった。必死で走りながら、心の中で伊織の名を呼び続けていた。
(伊織くん、伊織くん伊織くん伊織くん……!)
すぐにでも会いたい。会って安心したい。
だが、伊織も今は大変な状況だということをすぐに思い出した。そしてその状況を作り出したのがきっと自分の父であることも。
(ダメだ、今は……伊織くんに甘えられない)
走り続けたせいで息が上がって、走るのを止める。どこへ行くとも知らず足だけ動かし続けるが、ずっとそうしているわけにはいかない。
一花は角をまがり、加奈の家へ向かった。
◇◆◇
突然の来訪にもかかわらず、加奈も彼女の母も一花を歓迎してくれた。
ご飯は? おやつがいい? と聞いてくる母親を押さえて、加奈は様子がおかしい一花を自室へ連れて行って、扉を閉めた。
部屋に入った瞬間、一花は加奈に抱き着いて号泣し始めた。
「ママ……、ママ、ママー!」
「ちょっ、落ち着けって、私は一花のママじゃないぞ?!」
「加奈ーーー!」
ますます強くしがみつく。小柄な一花は加奈より頭一つ分近く小さい。その一花がギャン泣きする様子は本当に子どものようで、しかし普段は多少のことでは泣いたりしない一花をよく知っている加奈は、事の重大性を感じ取って、しばらくは好きにさせていた。
加奈の部屋着がぐしょぬれになったころ、一花がゆっくり顔を上げて加奈から離れた。
「……少しは落ち着いた?」
「ごめん……」
「いいってば。ほら、座んな。今飲み物取ってくる」
加奈は自分と一花用にジュースをグラスに注いで戻ってくる。気持ちを落ち着かせるためにも、事情を話してもらうためにも、まずは一息つけ、と勧めた。
「カルピス、おいしー」
「そりゃよかった」
「ごめんね、こんな時間に」
「別にいいよ。近所だし。それに……なんかあったんでしょ」
そう言ってよしよし、と頭を撫でてくる加奈を見て、一花は涙を新たにする。
「パパが……パパじゃなかったんだ」
「へ?」
唐突な一花の告白に加奈が目を丸くしていると、カルピスのお替りを申し出ながら、ぽつぽつと今しがたの文哉の話を繰り返した。
全部聞き終わった加奈は、呆然として何も言えなかった。
「ごめん、こんな話されても困るよね」
「正直、重いね。でも……あんた一人じゃ抱えきれないでしょ」
「ママはなんで死んだのかな、って、少し前に不思議に感じてたの。まさか自殺だとは思わなかった……。小学生だったから、パパも言えなかったよね」
「それだけじゃないだろうけどね、今の話聞くと。でも、もし今だとしたら、なんで? って聞かれてもっと言えなかったかもね」
二人の様子を心配した加奈の母が、一花の分のおにぎりを作って持ってきた。受け取りながら加奈が何か言っている。一花は居ずまいを直しながら、さっきまでの文哉の様子を思い出していた。
(パパは知ってたんだ。でもずっと言えなくて……。でも、叔母ちゃんと……)
戻ってきた加奈が一花に提案する。
「今日、泊ってく? うちのママも、そうしたら、って」
「ありがと。でも、明日も学校だし」
「あんた、真面目だねー。こんな時くらいサボっちゃえば?」
「えっと……いいのかな」
「いいじゃん。そしたら私もサボれるし」
「なんで?」
「一緒にいてあげなさいって、ママが。だから?」
にやりと笑ってピースする加奈を見て、一花は少しだけ笑うことが出来た。
「じゃあ、パパに電話しなきゃ」
「いいじゃん、別に。少しくらい心配かけちゃいなよ。それに帰ってこいって言われたらどうするの?」
一花は口ごもる。確かに今家に帰って父と向き合う気にはなれない。
「うちに連絡来たら私かママがどうにかするからさ。こういう時って、一緒にいないほうが落ち着いて考えられるよ、きっと」
そして、ほら食べな、とおにぎりを差し出す。
受け取ったそれはまだ温かくて、ツナマヨの甘さが優しかった。
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