第284話

 夕方になって、制服姿の伊織が広瀬の病室にやってきた。


「親父、どう?」

「大丈夫だよ。ちゃんと診てもらってるしね」

「親父って悩むと胃に来るタイプなんだね」


 笑いたいような泣きたいような顔の伊織が、ベッドサイドの椅子に腰を下ろしながらスポーツバッグから例の封筒を取り出した。


「これだよね?」

「ああ……ありがとう」


 広瀬は受け取りながら、友梨が突然家に来た日のことを思い出す。桐子はこの封筒の中を見ただろうか。見れば、住所表示から三鷹の屋敷だと分かるはずだ。だが今朝来た桐子は何も言わなかった。

 封筒を開いて中を取り出す。もう一度読み返してから、伊織に見せた。


「……何?」

「僕の知り合いが、千堂家について知りたいなら、この日にここへ来いって言うんだ」


 伊織は驚いてカードを受け取る。しかしそこには日時と地図しか記載されていなかった。封筒の表と裏を見るが、誰の指名も記載されていない。


「今度の土曜日じゃん。親父、どうすんの? てか、入院してるから行けないよね」

「そうだな……無理かな」

「延期してもらうとか?」


 広瀬はしばし考えて、首を振る。友梨の様子から、そうした交渉は受け入れないだろう、と予想した。


「先生に外出許可もらって行こうかと思ってる」

「でも……、千堂家の話なんだろ? 絶対親父にとって楽しい話じゃなくない?」


 伊織は驚いて止めようかと思った。だが、広瀬はその意も汲んだうえで再度首を振った。


「あの人が何を知っているのか、を一人で想像したり心配するほうが今は辛い。それなら、全部知ってしまったほうがいい」

「じゃあ……俺も行く」


 広瀬が口を開きかけたところで、もう一度繰り返した。


「行く。俺だって同じだよ。今も十分全部知ってるような気になってるけど、他にもあるんだとしたら知らないままにしたくない」


 ていうかさ、と、ため息を吐いた。


「親父、無理しすぎ。危なっかしいよ。前はママのことそういう人だと思ってたけど、親父もそうじゃん。親父がしんどそうになったら途中でも俺が病院へ連れて帰るからね。それが条件。俺が行っちゃだめなら、親父もだめ」


 分かった? と、子どもを窘めるように見下ろしてくる伊織がかわいくて、広瀬は何日かぶりに声をたてて笑った。


「なんで笑うんだよ?! てかさ……これ、もちろんママも行くんでしょ?」

「いや、まだ……ママには話してない」

「何やってんだよ……」


 はあ、とため息を吐く伊織に苦笑しながら、広瀬は、あれ以来ほとんどまともに桐子と会話していないことを思い返していた。

 自分が桐子を避けているのが大きいだろうが、桐子も必要なことしか口を開かない。少しは苦痛を感じているなら自分の溜飲も下がりそうなものだが、桐子からは嫌々やっている、という拒否感を感じない。


「伊織、ママは、家ではどうしてる?」

「どう、って……普通に見える、かな。ほとんど出掛けないよ。電話とかしてる感じもしないし、家の中にいるはずなんだけど、探さないとどこにいるか分かんないくらい静かだよ。まあ、元々お喋りな人じゃないけどね、ママって」


 言われてみればそうだった。確かに常に微笑んで家族の世話をしてくれてはいたが、はしゃいだり、激したりするのを見たことがほとんどない。


「俺からママに言おうか?」

「いや……僕が言うよ。そうだな、久しぶりに親子三人で出かけようか」

「って……あんま、楽しい行き先じゃなさそうだけどね」


 そうだな、と頷いた時、桐子も病室へ入ってきた。

 広瀬は黙って例の封筒を差し出す。中を見た桐子は予想通り瞠目していた。住所だけで三鷹の屋敷だと分かったのだろう。


「この日、この時間に、ここへ行こう。三人で。……いいね?」


 青ざめながらも、桐子は頷き返した。

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