第279話

 帰宅前に文哉は病院へ寄り、肩の治療を受けた。幸い骨には影響はなく、打撲だけだった。

 広瀬が寸でのところで堪えてくれたのだろう、と分かった。

 顔の腫れにも気づかれたが、肩と違いすぐに一花に気づかれることを考えて、冷やすだけで手当ては断った。


 病院から直接帰ると、普段より早い帰宅だったためか一花が驚いて駆けだしてきた。


「どしたの? 早いじゃん、まだご飯出来てないよ?」

「ああ、大丈夫だ、ゆっくりでいいよ」


 心なしか元気が無さそうに見える父に違和感を覚えつつ、一花は夕食づくりに戻る。今夜のメニューは、以前桐子に教えてもらった文哉の好物ばかりだった。偶然だが、これで少しは元気になれるかも、と想像して一花は一人で安心を取り戻した。




 自室に入りスーツを脱ごうとすると、やはり肩が痛む。痛み自体より、あれから妹一家はどうしたのか、が気になって頭から離れない。桐子に帰れ、と言われてその通りにしてしまったが、もう少し広瀬と話すべきだった、と後悔した。


 部屋着に着替え終えてから下へ降りると、一花の驚いたような大きな声が響いた。


「ほんとに? 大丈夫? そうなの……? そっか、じゃ、週末にでもお見舞い行くよ。え? だってパパが入院したときも来てくれたじゃん、おばちゃんだって毎日来てくれたし。……いいの? ほんとに?」


 文哉の心臓がドン、と跳ねる。何かがあったのだろうことが察せられた。そのままダイニングへ入っていくと、スマホで通話したまま一花が文哉に声をかけてきた。


「パパ、大変だよ、広瀬おじちゃんが救急車で運ばれんだって! 今、伊織くんから電話があって」


 文哉は目の前が真っ暗になった。


◇◆◇


 桐子が入院の手続きと準備のために病室から出る。そのタイミングで伊織もロビーまで移動して一花へ連絡を入れた。

 本当は一花に広瀬の件を伝えるかどうか迷った。なぜこうなったか、を問われれば、全て話さざるを得ない。一花も知る権利がある話であり、何より伊織が一花に嘘をつきたくなかった。


 予想通り、一花はとても驚き、そして心配してくれた。その声を聞いているだけで伊織は傷が癒えていくような気がした。電話口で涙が流れないよう、懸命に堪えた。

 一花が電話の向こうで文哉に呼び掛けている声が聞こえて、慌てて電話を終わらせる。一花と自分に血の繋がりがないことだけが、今の伊織の唯一の救いだった。


 広瀬の邪魔にならないよう静かに病室へ戻ると、ベッドの上で広瀬が目を覚ましていた。


「親父……起きた?」

「……伊織か」

「うん。ここ、病院だよ。親父、血吐いて倒れたんだ」


 広瀬は見慣れない室内を目線だけで見回しながら、伊織の話を聞き続ける。血を吐いた、という事実に自分でも驚いた。


「……ママ、は?」

「入院の手続きしに行ってる。あと、パジャマとか買いに行くって」


 入院する必要がある、という自分の状態に再び驚く。今は怠さを感じながらもどこが痛いというのはない。薬が効いているせいか分からないが、思考力も落ちてる気がした。


「今度は親父が入院するんだね。親父もママにたくさん甘えなよ。今まで言えなかった我儘たくさん言えばいい。俺も手伝うからさ」


 わざと明るくおどけたような伊織の声に合わせて笑おうとしたが、上手くいかなかった。


「僕は、病気なのかな」

「お医者さんが、胃潰瘍、って言ってたよ。仕事が忙しんじゃないのか、ってママに聞いてたけど……でも、そのせいじゃないよね」


 さっきまでの伊織の声の明るさは途端に失われた。そっと見遣ると、悔し気に顔を歪ませる伊織が言葉を詰まらせていた。


「親父、ごめん……」


 驚いた広瀬は、点滴がつながれている手をゆっくり動かして伊織の手を握った。


「どうして、お前が謝るんだ」

「だって……親父、知ってたんだろ、全部」

「全部、かな。いや……想像だった部分もあるよ。今日の文哉伯父さんの話で確証が出来たけどね」

「俺が、親父の……息子じゃない、って」


 広瀬は更に握る手に力を込めて頷く。


「この前お前が見つけた愛子さんの手紙と一緒に入っていた、もう一通の封筒があっただろう。あれはね、DNA鑑定結果だよ。僕と、お前のね」


 伊織は息を飲む。科学が証明したなら、自分と父の間には本当に親子関係はないのだ。気のせい、母や伯父の思い違いなどではないことは、逃れられない事実なのだと。


「じゃあ、俺もう」

「関係ない」


 伊織が言わんとしていることを察して、広瀬が遮る。


「お前は僕の子だよ。少なくとも、僕はそう思ってるからね」


 伊織は涙が止まらなかった。

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