第278話

 他にもある、という桐子の言に広瀬は身構える。

 実兄と寝て子供まで産んでいた、それが自分の息子だった。

 それ以上何があるというのだろう、と。


「あなたも知ってる、松岡さん、いるでしょ」

「……ああ、君の元上司だね」

「そう。それから、あなたがロンドンで知り合った役者の子」

「田咲くん、だっけ?」


 桐子が頷く。その顔を見て広瀬は意味を悟った。そして同時にめまいがして頭を押さえる。


「まさか、彼らと」


 否定してほしい、という広瀬の願いはすぐに砕かれた。桐子は頷いた。


「許してほしいなんて言わない。謝って済む問題じゃないのも分かってる。開き直るつもりも、あなたから逃げようとも思わない。ただ、言わなきゃいけないと思って」


 そこまで聞いた時、広瀬は激痛を得て口を押える。うぐっ、という呻き声に驚いた桐子は、蹲る広瀬が口から血を吐いていることに気づいて叫び声をあげた。


「あなた、あなた!」


 母の悲鳴に驚いた伊織が駆け込んでくる。その惨状に腰を抜かしそうになりながらも、震える手と声で救急車を呼んだ。


◇◆◇


 広瀬が運び込まれたのは救急指定された都立病院だった。医師から病状について説明された。


「胃潰瘍ですね。ほかに見たところ内臓に異常はないようですから、まあ精神的なストレスでしょう。お仕事が忙しかったりしていませんでしたか?」


 ストレス、と言われて桐子は目をつむる。確かに仕事は忙しそうだったが、今回の原因は自分以外にない。

 胃に穴が開くほど、広瀬を苦しめてしまった。

 こうなることを、今現実になるまで想像していなかった、覚悟していなかった自分にほとほと呆れ果てた。


「しばらく入院ですね。お勤め先へのご連絡をお願いします。必要であれば診断書書きますので」


 淡々と話を進める医師に、伊織が質問した。


「父と、今話せますか?」

「目が覚めていれば。病室はとりあえず空いている個室に入っていただきましたが、大部屋希望などありましたら事務局にご相談ください」


 桐子と伊織はよろしくお願いします、と頭を下げて、看護師に病室まで案内してもらった。


◇◆◇


 広瀬は眠っていた。ゆっくりと胸が上下するから、生きていることを確認できるが、顔色は悪く、まるで死者のようだった。


 桐子は入口から動けなかった。そして気がつけば、涙があふれて止まらなかった。

 伊織はそんな桐子を置いて、広瀬のベッドの横の椅子に座る。


「親父、結構白髪あるんだね」


 言いながら、そっと広瀬の額髪を整える。


「いつもきちんとしてるから、あんま気づかなかった。そろそろ五十近いんだから、当然か」


 桐子は涙を止めようと必死だった。自分に泣く資格なんかないのだから。


「さっきさ、ストレッチャー? っていうのに救急隊の人手伝って親父を乗せたんだけどさ、結構重いの。びっくりした。そりゃそうか、親父、背高いしな」


 涙で歪む視界に、広瀬の手を握る伊織が映る。息子が父を心配する、ごく普通の光景なのに、伊織の横顔は残酷なほど文哉に似ていた。


「最近、俺も結構背伸びたんだ。親父とあんま変わんないくらい。いつか親父よりでかくなれるかな、って思ってたけど……。無理だね。だって俺、親父の子じゃないんだもん。伯父さん、親父よか背低いもんね」


 伊織は顔だけ桐子へ向けた。


「ママ、もしかして、松岡さんたちのこと親父に話したの?」


 桐子は黙って頷いた。伊織は、そっか、とだけ呟いた。


「親父、ショックだったんだね」


 倒れた時の苦悩がそのまま残っている広瀬の寝顔を見つめながら、伊織はこらえ切れない感情を持て余した。


「ママ、お願いだから、今は親父のことだけ考えて。他のことは何もしないで、親父の看病だけして。それで親父が許すかどうかなんてわかんないけど、これだけは絶対に約束して」


 無論そのつもりだった桐子は何度も頷いた。

 目が覚めた広瀬に拒絶されることも十分あり得る。それでも何か出来ることはあるはずだ、と、伊織の言葉に勇気づけられた思いだった。

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