第277話
桐子は、寝室のドアをノックした。
「あなた、入っても、いい?」
中から小さく返事があったので、静かに扉を開けた。すでに外は暗かったが、広瀬はカーテンも閉めず、部屋も真っ暗で、ベッドの上で胡坐をかいて座っていた。
「ご飯、作ってあるから、食べられそうだったら食べて?」
広瀬は無言で首を振った。食事どころではない、ということだろう。当然その返事は予想していたので、桐子も頷いて、広瀬の横へ腰を下ろした。
「今更だけど、二人で話したいの」
「……何を?」
「今までのこと……あなたに話していなかったこと」
「今まで、って……。君が、お義兄さんをどれくらい愛してるか、って?」
鼻で嗤いながら桐子を見もせず吐き捨てる様子が、広瀬の苦しさの一端を垣間見せる。いつも優しく穏やかに接してくれていた広瀬はもう帰ってこないのかもしれない、と思うと、再び自責の念が込み上げてくる。
「あなたに話していないことがあるの。あなたを信じていないとかじゃなくて、自分でも……思い出したくなかった。あなたに見下げられるのが怖かった……」
やっと広瀬の顔が微かに動く。
桐子は広瀬が話す許可をくれたと理解し、重い口を開いた。
中学生の時の、ある日の下校途中。
見ず知らずの男に路地へ連れ込まれ、殴られ、蹴られ、抵抗できなくなったところで犯されたこと。
しかしその自分を、両親はドブからさらい上げた泥のように扱ったこと。
一言の労わりの言葉もないまま、桐子の知らないうちに両親が事故死していたこと。
病院から自宅へ戻ったとき、両親の位牌を見て、心の底から安堵したこと。
今までの人生で、両親の死を知ったときが一番幸せを感じた瞬間だったこと。
そこまで話して桐子が黙った後、広瀬が問いかけた。
「その事件は前に話してくれていたじゃないか」
「事件のことは、ね。でも私が言えなかったのは、その後のこと」
「……ご両親が死んで嬉しかったこと?」
桐子はこっくりと頷いた。
「ただの一度も愛されなかった。兄さんのことは、それなりに大事にしているように見えたのに、私のことはその場にいないように扱われた。それでも、本当の親なんだから、せめて私は親を愛さなきゃいけない、って思ってた。そうしていれば、いつか私を見てくれるんじゃないか、って。だけど……無駄だった」
両親の事故は、友人とパーティーをするために郊外の別荘へ車を走らせているときだった、と、経円が教えてくれた。経円は言いづらそうに話していたが、桐子は今更ショックも受けなかった。感じたのは納得だけだった。
「結婚前に妊娠が分かったとき、最初は怖かった。私が……ゴミのように扱われて育った私が、子どもを愛せるのだろうか、って。それに結婚もしていないのに妊娠したなんて、あなたが知って去って行ったらどうしよう、って」
「そんな」
「そう、そうよね。あなたは本当に喜んでくれた。だから私も、産もうって思えた。でも今度は、生まれてきた子に、お前なんか要らないって言われるんじゃないかって考えて怖かった」
こんな話をするつもりじゃなかったのに、こんなことを話しても何の意味もないのに、と思いながら、桐子は止まらなかった。広瀬も止めなかった。
「あなたと出会って、大事にされて、本当に嬉しかった。幸せだった。でも、いつかきっと要らないって言われると思って怖かった……。私のことをずっと愛してくれる人なんて」
「お義兄さんだけだと思ってた?」
桐子は暗闇の中で、広瀬を見つめる。暗すぎて、近すぎて、広瀬の表情がはっきりと分からない。けれど、自分が嘘を吐くわけにはいかなかった。
もう一度、ゆっくりと頷いた。
「違ったのにね。私は怖くて怖くて、そこから逃げたくて、結局自分で、逃げたい未来を引き寄せてしまったんだわ。あなたを、伊織を巻き添えにして」
そして桐子はもう一つの告白を決意する。
立て続くむごい現実に広瀬は耐えられるだろうか。だが、ここで話を止めたところで、きっとどこかで知られることになる。だとしたら、自分から話すなら、今しかもうチャンスは無かった。
「兄さんのことは、私は本当に覚えていない。だけど……他にもあるの」
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