第276話
左肩を蹴り飛ばされた文哉は、後ろに跳ね飛ばされる。家具にぶつかり、それが窓ガラスに当たって室内は騒然となった。
「兄さん!」
真っ先に文哉に駆け寄る桐子を、広瀬は苦く見つめる。一度吹き出した激情は簡単には収まりそうになく、さらに一歩踏み出したところで伊織が後ろから抱き着いてきた。
「親父、落ち着けよ! これ以上伯父さんがケガしたら、俺、警察呼ばなきゃいけなくなるだろ! そんなの、やだよ!」
背中から必死で広瀬を羽交い絞めにする。父の粗い息遣いと見たことのない激昂に、今までどれほど我慢し続けてきたのかが伝わってきて、伊織は止める力が更に強まる。
「分かるよ……親父の気持ち、すげえ分かる。だけどダメだよ、一旦落ち着こう」
文哉のケガの程度を確認した桐子は、先ほど兄がしたのと同じように広瀬の足元に頭をつけた。
「ごめんなさい……。知らなかったとはいえ、あなたを、何も悪くないあなたを苦しめた。謝ったって意味ないのわかってるけど、でも、ごめんなさい……」
「君は……ずるいよ」
急に広瀬の体から力が抜けるのを、ずっと抱き着いていた伊織にも伝わってきた。ゆっくり膝をつこうとする広瀬が転んだりしないよう、手を貸した。
「僕が君を責められないのを分かっててそんなこと言うんだろ? ……お義兄さんも、どうして僕と二人で話そうとしてくれなかったんですか。桐子と伊織がいたんじゃ、僕はもう何もできない……」
桐子は伏せていた顔をあげる。すぐ間近に広瀬の顔があった。苦しみで歪んで、泣くことも出来ずに藻掻いている広瀬を見て、やっと自分が何をしてきたのかが分かった。
「兄さん、ごめん。今日は、帰ってもらっていい? また連絡するわ」
文哉は黙って頷いた。肩の痛みをこらえながら立ち上がり、見えていないだろうが広瀬に深く頭を下げると、静かに玄関から出ていった。
桐子は伊織がいることも忘れて、広瀬の頭を抱きしめた。拒絶され、突き飛ばされることも覚悟していた。むしろそうしてもらえたほうがまだ楽になるかもしれない。しかしそれもまた逃げであったし、その程度では贖罪にならないことも分かっていた。
だが広瀬は、桐子を拒絶しなかった。ただ黙って、その心臓の音を聞いていた。
◇◆◇
広瀬が自室に戻ると、リビングには桐子と伊織の二人だけになった。桐子はじっとしていることが出来ず、洗い物を片付けようとキッチンへ向かった。
シンクに、来客用のカップが置いてあった。普段、家族だけなら使わないそれが出ていることが珍しくて目に留まった。
(お客さん……?)
手に取ると、微かに口紅の跡が残っていたことで、女性だと分かった。だがそれ以上考えることなく、スポンジを手に取った。
ザーザーと水が流れる音が心地いい。食器が終わった後はガス台の掃除に取り掛かる。
その時、背後から伊織の声がした。
「親父……伯父さんが俺の父親だって、知ってたんだな」
水道の音よりきっと小さい声だった。だが今の桐子がそれを聞き逃すことは無かった。水を止めるが、振り返ることは出来なかった。
「もしかしたら違うかも、とか思ったり、でもやっぱり、って考えたり、って、すごいしんどいよな。そんなことを、ずっと続けてたのかな」
桐子の脳裏に、今しがたの広瀬の苦悩の表情が甦る。あの苦しみを隠して、菩薩のように優しい仮面を、自分たちのために被り続けてきてくれたのだろう、と。
「俺が……一花を好きにならなければ、分からないままでいられたのかな」
桐子は驚いて振り返る。そして何度も首を振った。
「伊織は何も悪くないわ。一花ちゃんを好きになったのも、自然なことよ。不自然だったのは……私なの」
「でもさ、もし……ママが流産した後に伯父さんが何もしなかったら、俺って生まれてないってことだよね? そう考えると、親父はまだしも、俺は伯父さんやママを責めちゃいけないのかな、って……」
桐子は再び激しく首を振る。
「伊織は……伊織こそ被害者なのよ。私が……ママがずっと間違ってたの。パパと結婚するって決めたんだから、パパ以外を頼っちゃいけなかったのよ」
桐子は今でも事故直後のことを思い出せないでいる。
しかし昼の文哉の話では、あの時と同じような症状を呈していたらしい。
きっと自分はずっと、文哉以外に心を開けずに生きてきたのではないか。
結婚を約束した広瀬よりも、自分にとっての安全基地は、今も昔も文哉なのだと、この期に及んでまだ痛いほどかみしめていた。
「ママが責任を取るわ。伊織も、パパも、もちろん一花ちゃんも、もうこれ以上傷つけない」
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