第275話
「出来れば広瀬くんを呼んでもらえるかな……。いや、俺がそちらへ行くべきだな」
「それってもちろん、このことを……話すってことよね」
桐子と伊織は顔を見合わせた。広瀬だって当事者だ。広瀬にだけ話さずにいられるはずはない。むしろ桐子たちより先に事実に気づいていて、愛子から手紙を託されたのだから、一番に知るべき人物でもある。
文哉の申し出が正しいと分かっていても、桐子は二の足を踏んでしまった。しかしそれを理解したのか、伊織が代わって返事をした。
「分かりました。じゃあ、このまま一緒に行きましょう」
そして桐子を見て頷いた。
「ママ、もう逃げるのやめよう。親父はきっと待ってるから」
桐子は伊織の頼もしい言葉に驚いて、何度か目を瞬かせてしまった。
◇◆◇
三人でタクシーに乗り込んで家へ向かう。桐子は伊織と並んで後部座席に座って、痛いほど強く打つ胸の痛みをこらえていた。
三十分とかからず香坂家に到着する。足が竦みかける桐子を見て伊織が先に門を開けようとしたが、桐子が引き留めた。
「ごめんね、伊織に甘えすぎてるわ」
そして自分から玄関を開けた。
「ただいま」
◇◆◇
広瀬は門前に車が停まる気配がしたときから、三人が入ってくるのを待っていた。最初に桐子の声が聞こえたことが意外だった。広瀬の予想では、二人の影に隠れると思っていた。
重苦しい心を振り払うように立ち上がり、玄関に出迎えに行く。
桐子、文哉、そして伊織の三人が並んでいるのを見て、広瀬は凍り付く。
(いつの間に……)
今までずっと気がつかなかった。むしろ気がつかなかったことに自分で驚いた。
伊織は、文哉とうり二つに育っていたのだった。
「こんな時間に押しかけて申し訳ない」
「いえ……、お話があると、先刻おっしゃってましたもんね」
文哉は頷く。そしてソファから降りて、床に膝をついて頭を下げた。
「ずっと黙っていたが、伊織くんの父親は俺だ。あの時……桐子が事故に遭ったとき、君との子供は流産していた。俺が……事情があったとはいえ、実の妹を抱いて生まれたのが伊織くんだ」
もう一度低い声で謝罪の言葉を繰り返し、床に頭をつけて土下座した。
広瀬はその姿を横目に、桐子と伊織に顔を向けた。
「二人は驚かないね。三人で、口裏合わせをしてから来たのかな?」
「ちがっ……」
「桐子、君だけならまだしも、僕の許可も得ずに伊織に話すのは、いくら何でもルール違反じゃないかな……。ねえ、お義兄さん?」
文哉はゆっくり顔を上げた。広瀬はその顔をまじまじと見つめる。頬が微かに赤い。伊織か、桐子に殴られたのか。おそらく伊織だろう。桐子はきっと、何があってもこの義兄に手を上げたりしない。
妻とよく似ている。そして今では、息子とも似ていた。
(いや、もう……僕の息子ではないんだな)
伊織が生まれた時のことを思い出す。初めて立ったとき、小学校に入学したとき、少年サッカークラブで試合でシュートを決めたとき、一緒にキャンプで魚釣りをした。気がつけば自分と同じくらい背が伸びていて、でも心配になるくらい母親べったりで、だから無理に引き離そうとした。流れで文哉の家に預けたときも、もう自分たち家族は盤石だと思っていたから何の心配もしていなかった。
しかしそれは、自分の願望が見せた幻だったのだ。
幸せな幻は、あっという間に木っ端微塵に砕け散った。
目の前の、この男のせいで。
「はは……」
期せず漏れた自嘲に三人の目線が集まる。その
「兄さんっ!」
派手な破壊音と共に桐子の悲鳴が響き渡る。気がつけば広瀬は、脚を振り上げて文哉を蹴り飛ばしていた。
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