第274話

「親父は……知ってたんだ」


 伊織が下を向いたままつぶやいた。


「だから、俺と一花のこと、反対したんだ……。絶対にダメだ、って、理由も言わないで……。言わなかったんじゃない、言えなかったんだ」


 桐子は昨日の夕食の席を思い出す。この現実を予見したのは、桐子も同じだった。

 伊織はたまらず、文哉につかみかかる。


「どうすんだよ!? 俺は一花を諦めなきゃならないのか? あんたたちのせいで! 俺も一花も、全然知らなかった! もっと早くに教えてくれていたら、こんなことにならなかったんだぞ!」


 今にも殴りかかりそうな勢いと激情に桐子は慌てる。力の入らない脚を引きずるようにして伊織を止めようとした。

 その時、文哉は自分のシャツをつかんでいる伊織の手をそっと握った。


「それは、大丈夫だ……。そうか、君と一花は、恋人同士だったのか……」


 文哉は嬉しそうにすら見える顔でうっすらと笑う。しかし伊織には嘲笑に見えたのだろう、文哉の手を振り払って、右の握り拳を文哉の左頬に叩き込んだ。

 必死の全力が、文哉を吹っ飛ばす。彼の背後の大きなデスクに背中から激突し、机の上のものが盛大な音を立てて倒れたり落下したりした。


「伊織!」


 驚いた桐子が息子を押さえようとしがみつく。そして、伊織の体がガタガタと震えていることに気がついた。


「伊織……」

「何が大丈夫なんだよ! 全然大丈夫じゃないだろ? あいつは……俺の妹ってことじゃん! そんな……あんたたちと、一緒にすんなよ!」


 喉が裂けそうな悲痛な叫び声に桐子は怯む。しかしここで逃げるわけにはいかない。文哉が受けた拳は、本当なら自分が受けるべき怒りだったのだ。


「伊織、落ち着いて、本当に大丈夫なのよ。あなたと一花ちゃんは、兄妹じゃないの」


 下から見上げるように訴えかけてくる母を、伊織は見ず知らずの他人のように見下ろす。そして言われたことを数度頭の中で繰り返した。


「それって……、どういうこと?」

「お前も知ってたのか、桐子」


 着崩れを直しながら立ち上がった文哉は、少し驚きながら桐子へ問う。桐子は頷き返した。


「今日知ったの。慧然寺のご住職から聞いて……」


 文哉は、そうか、と言って小さく何度も頷いた。そして伊織へ顔を向ける。


「一花は、愛子が……あの子の母が、俺と知り合う前に別の人の間に身籠った子だ。戸籍上は俺の娘だが、血は繋がっていない」

「……え?」


 驚き過ぎて思考が追い付かない伊織の背を、桐子がそっと撫でた。


「あなたと一花ちゃんは、戸籍の上では従兄妹だけれど、血のつながりは無いわ。だから、彼女を愛していても何の問題もないの」


 伊織はもう一度母を見る。その顔をじっと見つめているうちにやっと緊張が解けた。ゆるゆると上げた腕で、母にしがみつく。


「ほんと? 俺……一花のこと、好きでいていいのかな」

「大丈夫よ。むしろ、ずっと大事にして。一花ちゃんが、本当のことを知ったときは、あなたが支えるのよ」


 伊織はハッとして、文哉を見る。申し訳なさそうに力の抜けた顔でもう一度頭を下げた。


「あの子は何も知らない。いつか話さなければいけないと分かっているが、一花のショックを考えると勇気が出なかった」

「……ショック?」

「俺と血がつながらない、本当の父親が誰か分からないとなると、一花は天涯孤独になってしまうんだ」


 伊織は言われて初めて気がついた事実に愕然とした。そうだ、一花は実母を亡くしている、たった一人の家族だと思っている父とは、実は血がつながらないと分かったら、どれほど傷つくだろう。


「俺が頼めた義理じゃないのは分かっている。でも、……一花を、よろしく頼む」


 伊織は息を飲む。いきなり大きな責任を背負わされたようなものなのに、何故か胸が熱くて嬉しくてたまらなかった。

 

 桐子は、伊織がしっかりとつかんでくる手から、震えが止まっていることに気がついた。

  

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