第273話

『伊織くんの父親は、俺だ』


 文哉の告白に大きなショックを受けた伊織は、その場にへたり込んでしまった。

 そして桐子は、少しずつ忘れていたものが再生されていくのを、映画でも見るように眺めていた。


(私……あの時、本当は……)


 物音一つしない部屋の中で、文哉はゆっくり頭を上げる。呆然自失とした二人に、その当然の反応と、文哉からは推し量りきれないショックを想像して辛かった。


 沈黙を破ったのは伊織だった。


「二人が、夫婦、って、そういうことだったんだ……」


 完全に独り言だったようで、声は小さかった。しかし静まり返った室内では二人には十分に聞き取ることが出来た。


「夫婦、って」

「伯母さん……、愛子伯母さんが、親父に出した手紙に、そう書いてあった」


 伊織の答えに文哉は驚く。生前、二人はそれほど親しげには見えなかった。その広瀬宛に愛子が手紙を送っていたこと、そしてその中に、自分たち兄妹の関係まで書いていたことは、想像すらしていなかったことだった。


「伯父さんには、愛子伯母さんと一花が必要だった、って。誰にも言えない秘密を隠すために……」


 文哉は愛子の面影を思い浮かべながら、今の伊織の言葉と重ね合わせようとした。はじめは違和感しかなかったその二つが、次第にぴたりと重なった。


「秘密って……何のこと」


 それまで黙っていた桐子が口を開く。伊織と文哉をせわしなく交互に見遣るが、先ほどまでの無感情な顔ではなかった。

 文哉はソファへ座った。


「お前が妊娠中に階段から転落した事故があったな。……覚えているか」


 ビクッと肩を震わせて小さく頷く桐子の横で、伊織は頭の中で色んな情報がパズルのようにつながっていくのを感じる。


「あの事故で、お前は本当は流産していた。言わなかったけれど、自分で分かっていたんだろう。それがショックだったんだろうな、と同じように子供がえりしていたよ。事故のことだけじゃない、自分がもう大人になって働いてること、結婚が決まっていて、……その人の間の子を身ごもっていたことも全部忘れていた。あの三鷹の屋敷で、お祖父さん達がいた時に戻ってしまっていた」


 桐子は脱力感と吐き気を同時に催した。だがぐっとこらえて、文哉の言葉を聞き続けた。


「けれど、それも意識を保てている間の鎧だったんだろうな。夜になると、叫び声をあげるようになった。どんなに宥めても、医者からもらった鎮静剤を飲ませても全然効かなかった。体は寝ていても意識は眠っていない。お前はどんどん衰弱して、とてもじゃないけれど広瀬くんに会わせることは出来なかった」


 伊織は思わず桐子を見る。父に会わせることが出来ないほど、薬も効かないほどのショックなど、伊織自身は想像も出来なかった。


「とにかく眠らせないといけないと思った。どんなことをしても……お前を死なせたくなかった……」


 文哉は自分の悪あがきのような意地汚い言い訳に拒否感と自己嫌悪でどうにかなりそうだった。しかし心のどこかで、やっとするべきことが出来ているような、重い荷を下ろせているような安堵も感じていた。


「あれしか、方法が思いつかなかったんだ。まさか子どもが出来るとは思わなかった。いや、それを考える余裕すらなかった……」


 両手で顔を覆って、文哉はそれ以上話続けられなくなった。

 再び静まり返った室内で、どこからか携帯のバイブ音が鳴る。だが誰も、それを確認しようとはしなかった。


「じゃあ……俺は、望まれない子どもだったんだ」


 再び静寂を破った伊織の声に、二人が同時に反応した。


「違う!」

「そんなはずないでしょ! 私は伊織が」

「だってそうじゃないか!」


 伊織は立ち上がり、苛立ち紛れにバン! とドアを拳で殴った。


「ママは妊娠したくてしたんじゃない、伯父さんだって子どもが出来るなんて思っていなかったんだよね?! じゃあ俺は? 誰も望んでないのにたまたまできちゃった、生まれちゃいけない子どもだったんじゃないか!」

「違う!」


 再び文哉が大声で叫んで否定した。


「それは違う、絶対に違う! 君が……伊織くんがお腹にいてくれたから、桐子は元気になれたんだよ。あの時は……広瀬くんとの子供だと思い込んでいたから、俺は……本当のことが言えなかった。だから悪いのは全部俺なんだ」


 文哉の声は震えていた。


「生まれてきてくれて、本当にありがとう」

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