第271話

 飛び出して行った伊織も気になるが、明らかに尋常とは思えない桐子も心配で、広瀬はその場から離れることが出来なかった。


「桐子、一旦落ち着こう。お茶入れるよ、下に行こう?」


 桐子の肩を抱いて立ち上がるのを手伝う。

 その動作でハッとしたように顔を上げた桐子は、広瀬に半ばしがみつくようにして訴えてきた。


「あなた……伊織は、あなたの子じゃない、って言ったわよね」


 広瀬は全身に緊張が走る。広瀬の急所と言ってもいい話題に唐突に切り込まれ、すぐに返事が出来ない。


「あなたの子じゃないなら……あの子の父親は、誰なの……?」


 桐子の顔は蒼白を通り越して紙のように白かった。唇は震え、目の焦点は定まらない。

 広瀬は正面から桐子を抱きしめる。そして、それ以上言うことが無いことを告げた。


「それは、きっと君しか知らないんじゃないかな」


 桐子は、じっとしたまま、頭の中で広瀬の言葉を繰り返した。

 そして何も言えずにいる広瀬を置いて、またふらりと家から出て行ってしまった。


 広瀬は桐子に文哉からの電話の件を伝えそびれていたことを後から思い出したが、もうどうでもよくなってしまった。


◇◆◇


 ほとんど身一つで外へ出た桐子は、通りかかったタクシーに乗って文哉のオフィスへ向かった。

 財布も持っていなかったので、運転手に待ってもらい受付で名乗る。


「香坂桐子と申します。代表の千堂文哉を呼んでいただけますか」


 名前を聞いて驚いた受付嬢は、飛び上がるようにして直接社長室へ駆けこんだ。桐子の来訪を聞いた文哉は、広瀬の連絡を聞いてやってきたのだと思い降りていく。

 しかし桐子は明らかに普段と様子が違っていた。


「……どうした」

「悪いんだけど、タクシー、待たせてるの。料金払ってくれる?」


 入り口を見遣れば、困った顔をして立っている運転手がいた。文哉は慌てて支払いと謝罪をし、無表情の桐子を連れて社長室へ戻った。




 まずは桐子を落ち着かせようと茶の用意をしたが、桐子がそれに手を付けることはなかった。

 相変わらず何の感情も宿していない目のまま、ただぼんやりと座り込んでいた。

 

「手ぶらで来たのか? 広瀬くんは?」

「……教えて、兄さん。私、聞きたいことがあるの……」


 文哉の問いに答えることなく、桐子はぼそり、とつぶやいた。


「……なんだ」


 返事をしつつ、文哉の心臓が急に強く打ち始める。桐子が何を知りたがっているのか、ほとんど予想出来ていた。


「伊織の父親は、誰……?」


 文哉は、ついに来るべき時が来たと思った。


◇◆◇


 家に残った広瀬は、伊織の行き先を探そうと、まずは携帯に電話を掛けた。だが、何度かけても繋がらない。着信音が家の中から聞こえないから、持っているのだろうが、今は話をしたくない、ということだろうか、と考えた。


 念のため近所の公園にでもいないか、と思い、探しに出ることにした。

 財布と携帯、家と車のキーを持って玄関を開けたとき、想像だにしなかった人物が広瀬を待っていた。


「お疲れ様です、マネージャー」


 川又友梨が、にっこり微笑んで立っていた。


◇◆◇


「伊織くんの……」

「広瀬から聞いたの。伊織は自分の子じゃなかった、って……。ずっと、一人で抱えていたみたい」


 文哉はぐっと歯を食いしばり、衝撃に耐えた。


「自分の子じゃないかもしれない、って疑ったのは、愛子義姉さんからの手紙がきっかけだって言ってたわ」

「……愛子の?」

「兄さん、愛子義姉さん、自殺だったのね」


 桐子の目が真っすぐ文哉をとらえる。しかしその目は真っ暗な穴が二つ並んでいるようで、何の感情も意思も読み取れなかった。


「私だけ、何も知らなかったのね……。ううん、知ろうとしなかった。気づこうとしなかった……。だって、伊織を産んだのは確かに私だもの。それなのに、父親が広瀬じゃないってどういうこと……?」


 もうこれ以上黙っていることは出来ないと思い、文哉が口を開いた瞬間。

 内線電話が鳴った。


『社長宛に、香坂伊織様がいらっしゃってます』

 

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