第270話
「伯父さんがいなければ生きてこられなかった、って……」
「これも分からないわよね……。ママのお父さんとお母さん、特にお母さんはママのことが嫌いでね。顔を合わせるたびに嫌そうにされたわ。だから他の人たちは、ママのお母さんの機嫌を損ねないために、一緒になってママをいないものとして扱ったの。お父さんもね」
「そんなこと……」
「不思議でしょ。理由なんて分からない、でもたぶん、ママは人から嫌われるのよ。だって、お母さんだけじゃなかったもの、ママを嫌う人は」
息子相手に何を話しているんだろう、と思いながら、桐子の思索は幼少期から学生時代へと巻き戻っていく。
家の中だけなら母への遠慮や同調が理由かもしれないが、学校でも桐子に近寄ろうとする者はいなかった。
むしろ、植田や環、広瀬、そして最近では松岡や剣は、どうして自分と関わろうとするのかが分からなかった。
好意や差し伸べられる手は嬉しかった反面、理由が分からないだけにしっかりとその手を握り返すことが出来ない。
しかしそれが文哉の手ならば、信じるか信じないか、という判断すら不要になるほど躊躇せず握り返すことが出来た。
「ママは、ここにいちゃいけない人間だったのかもしれない」
誰に言うともなく桐子の口からこぼれ出た言葉に伊織は絶句する。そして思わず、焦点の定まらない目をした母の頬を打った。
パン! と乾いた音に、伊織自身が驚いた。が、母の愚にもつかない繰り言は、絶対に許せなかった。
「ふざけんなよ! なんでそんな、ママに嫌なことするやつのことばっか見てんだよ! 俺も、親父も、一花も、松岡さんだって、みんなママのこと大事にしてんじゃん! いちゃいけないなんて誰も言ってないじゃん!」
桐子は叩かれたことよりも、伊織の顔に驚いていた。
それは、まだ伊織が小さかったとき、駄々をこねて泣いて困らせてきたときの顔と同じだった。
「だから伯父さんだけ信じられるって? 伯父さんだけがママを大事にして、他の人はみんなママを要らないって言ってるって? バカじゃねえの! そんなん、ママの思い込みじゃん! 怖がってるだけじゃん!」
いつの間にかボロボロ涙を流していた伊織は、座り込んで呆然として一言もない桐子にしがみついた。
「一花のお母さんだって、ママたちのせいで……。それなのにママは自分のことばっか考えてる……! 俺、ママのこと、今大っ嫌いになった! だってそうじゃん、俺や親父のこと、ずっと一緒にいたのに全然信じてないんだよね、子どもの時優しかった伯父さんだけが大事なんだよね?! なんでだよ! ママも伯父さんも、最低だよ!」
そして言い終わると、今度は同じだけの力で桐子を突き飛ばした。押された拍子に桐子は後ろに倒れ、椅子にぶつかり、椅子は勉強机に衝突した。大きな破壊音が部屋に響いて、伊織は驚いて固まった。だが桐子は痛がるどころか身動きすらしなかった。
その時、部屋の外から広瀬がノックしてきた。
「どうした? 何か音が聞こえたけど、大丈夫か?」
伊織はハッとして、ドアと母を何度か見比べる。明らかに自分が母に暴力をふるった形になるが、とはいえ謝る気などさらさら湧いてこない。それどころかより一層憤懣が込み上げてきて、そのやり場に困った。
「伊織? 桐子? 入るよ?」
ノブが回る気配がしてドアが開く。倒れ掛かるようにして動かない桐子を見て、広瀬は驚いたような顔を伊織へ向けた。
「伊織、お前」
広瀬の問いかけが終わるより先に、伊織は部屋を飛び出した。
「おい、伊織!」
慌ててその後ろを追おうとしたが、桐子の許へとどまった。広瀬は膝をついて声をかける。
「桐子? どうした、大丈夫?」
「……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」
「怪我してるのか? どこか痛い? 何があった?」
「ごめんなさい……私が悪いの、全部、私のせいなの……」
桐子はぶつけたところも頬もどちらも痛くなどなかった。ただ伊織の悲鳴のような言葉だけが、延々と耳の奥で繰り返され続けていた。
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