第269話

 桐子の行き先について頭を悩ませていた文哉のところへ、各務から電話がかかってきた。

 スマホの発信者名を見て、文哉は顔を顰める。今の文哉にとって、一番どうでもいい相手だったからだ。

 しかし無視してもどうせまたかかってくるだろう、と思い、『応答』をタップした。


『出たならせめて名乗りましょうよ』

「……何の用だ」

『例の件ですが、繰り上げます。今週の土曜日に全員集合させてください』

「勝手だな」

『当然です、トリガーを握っているのはこちらだ』

「妹たちは……」

『ああ、どうせあなたから声をかけて呼び出すことなんて出来ないでしょうから、そちらは気にしないでいいですよ。お嬢さんだけ連れてきてください。では』

「おい、ちょっ……」


 待て、と言うより早く電話は切れた。


 文哉は電話を放り出し、どうしたものかと頭を抱えた。が、各務はすでに動き出しているのだろう。

 各務を止めたい。が、そのための覚悟を固めきれない自分がいた。

 

 昨日の伊織からの求めにも応じなければならない。

 立て続く状況の変化に、文哉は、隠し続けることに限界を感じていた。

 ただそれでも全てを懺悔する決心がつかないのは、真実が傷つけるのは文哉ではなく桐子で、そして伊織だ、という現実があるからだった。


 緊張に堪えかねて、昼間にも関わらず、文哉は書棚の奥からブランデーの瓶を引っ張り出す。空になっていたコーヒーカップに注いであおると、アルコール独特の刺激が喉から胃に降りていくにしたがって気分も多少落ち着きを取り戻した。


 椅子に座り直し、天を仰ぐ。

 自分の罪は、いつかどこかで露見するだろう、その時は償わなければいけない、と、恐れ、覚悟を決めていたつもりだった。しかしすぐ目の前に迫ってきたことに、自分でも驚くほど狼狽していた。

 文哉は往生際の悪い自分を自分で殴りたいほど腹が立っていた。だがそんなことをしたところで多少なりともすっきりするのは自分だけだった。


 本当に詫びなければならない人たちの何人かはすでにこの世にいない。

 そして桐子も、広瀬も、伊織も、一花も、文哉がどんな謝罪や贖罪をしたところで、許してくれるはずもないだろう。


 それならば、各務に、川又家の人間に先を越されるよりも、自分の手でやるべきことはやらなければならない。

 最悪の事態の一歩手前の悪あがきに過ぎなくても。


 文哉はスタッフに『しばらく部屋に入るな、電話も来客も取り次ぐな』と指示したうえで、広瀬に電話を掛けた。


◇◆◇


(何を話しているんだろう……)


 桐子が帰宅後真っすぐに伊織の部屋へ向かってから、小一時間経つ。朝の伊織の様子を思い出せば、桐子に対して不安やストレスをぶつけていても不思議ではない。どちらかと言えば広瀬も同じような心境にある。

 だからこそ、伊織が何かするようなら止めに入ろうと思っていたが、物音どころか声すら漏れ聞こえてこない。

 外から様子を伺えないか、とも考えたが、話の内容如何では自分のメンタルが持たないかもしれない、と思うと盗み聞くことさえ出来ずに、見てもいないテレビをつけっぱなしにしていた。


 その時、テーブルに置いていたスマホが鳴った。会社からかと思いすぐ手に取ったが、発信者は文哉だった。

 苦いものを飲み込みながら、広瀬は電話に出た。


『何度も申し訳ない、今、少し大丈夫かな』

「大丈夫です。あの、桐子……さっき戻ってきました。すぐに伊織の部屋に行ったので、今ここにはいないのですが」

『ああ、戻ってきたか。良かった。本当に迷惑かけて申し訳ない。実は、桐子と話がしたいんだ。こっちのオフィスに来るように伝えてもらえないだろうか』

「桐子と、ですか……」


 広瀬は拒否感を滲ませる。ずっと押し込めてきたものが、桐子にぶちまけたことで抑制出来なくなっていることに自分で気づいていた。

 自分は、この義兄が嫌いなのだ。

 そんなシンプルな感情に気づくのに、何年かかってしまったのだろう。


『少し内々の話になるんだが……。その後で出来れば君とも話がしたい。忙しいのに申し訳ないんだが』

「僕は……大丈夫です。桐子には、降りてきたら伝えます」


 そう言って、互いに電話を切った。


 文哉の良く通る声がまだ耳に残っている。その心地よさまでもが、今となっては忌々しかった。

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