第268話

 伊織の目線を受け止めながら、桐子はその前に座る。


「ごめんね、急に出かけて。パパとお昼食べた?」

「食欲なんかないよ」


 冷たく桐子の言葉を撥ねつけながらも、伊織は出て行けとも言わないしそこから動く気配もない。桐子は頷いて本題を切り出した。


「今ね、慧然寺に行ってきたの。伊織たちも行ったのね」

「……うん」

「千堂家のこと、知りたがってたって聞いたわ」

「……うん」

「ごめんなさいね。私も伯父さんも、全然話さないものね」

「でも……それは」

「うん、ママのせいなの。伯父さんは、ママのために話せずにいたんだと思う。ママは……自分の嫌な思い出から逃げたかった。だから、伊織のため、なんて心の中で言い訳しながら、何も教えずに来たの。でもそのせいで、要らない悩みを抱えさせちゃったのね」

「俺は……」


 伊織は慌てて口を挟む。母が隠していたこと、母にまつわる秘密を知った今となっては、一方的に責めることは出来ない。かといって全てを受け入れられるほど大人にはなれないし、小さな問題でもなかった。

 伊織側にも、両親に隠れて嗅ぎまわっていたことへの負い目もあった。


 ちらり、と、伊織の目が泳いだことに、桐子は気がついた。


「パパなら下よ。大きな声じゃなければ聞こえないわ」

「じゃあ、言うよ。俺……松岡さんと知り合いなんだ。ついでに田咲さんとも話した。この前、外泊しただろ。あの時、松岡さん家に泊めてもらったんだ、田咲さんと一緒に」


 桐子は瞑目する。今日は一体何という日だろうか。朝から次々と襲い掛かってくる衝撃に、驚く神経が麻痺してきた。ただこれもすべて桐子自身が蒔いた種なのだ。


「そう……。呆れたわよね」

「うん……でも、ママのことも色々聞いたから、なんて言うのかな、ママのバカ! っていう気持ちだけじゃなくて、俺自身どう理解したらいいのか分からなくて」

「私のこと?」

「……中学のとき、乱暴されて入院してた、とか、お祖父ちゃん達に厳しく育てられたこととか、あと……俺を妊娠してた時の事故のこととか」

「それは……誰から?」

「言えないよ、チクったみたいになるじゃん」

「怒ったりしないわ。むしろ、私からちゃんと話さなきゃいけないことをその人が話してくれたんだもの。それに……ママから直接聞くよりも、他の人から聞いたから、伊織はちゃんと受け止められたんじゃないの?」


 伊織は母の言葉に黙って頷いた。


「ママは、自分のことが大事じゃないの?」

「……え?」


 伊織の唐突な質問に、桐子はすぐに反応が出来なかった。


「田咲さんがそう言ってた。大事にされずに育った人が、自分を大事に思えるんだろうか、って」


 桐子はしばらく会っていない剣を思い浮かべる。そうだ、彼だから、桐子の闇に気がついたのだろう。彼は、私だから、と。


「でもママは、俺や親父のこと大事にしてくれてた、少なくともそう思ってた。でも……俺たちが知らないところで浮気してた。二人とも、ママのこと悪くなんて言わなかった。俺の前だからかもしれないけど、二人とも、自分たちが悪いんだ、って、ママを庇ってた」


 伊織はぐっと拳を握る。


「でもママは、俺たちよりも、松岡さんたちよりも、大事なものがあったんだよね……」


 言って、顔を上げる。その目は嘘や誤魔化しは一切許さない、とでも言いたげな力がこもっていた。

 もとよりここへきて誤魔化すつもりはない桐子は、小さく頷いた。


「そうね……そうかもしれないわ」

「そんなに……伯父さんが大事なの?」

「……伊織も、パパも大事よ。あの二人にも感謝してるわ。だけど、伯父さん……兄さんは、ちょっと違う……。そうね、さっき、ママは自分のことが大事じゃないのか、って言ったわね。ママにとっては、兄さんを大事にすることが、自分を大事にすることだったのかもしれないわ」

「……全然分からない」

「そうよね。……伊織は、風邪を引いたらどうしてる? お腹すいたり、学校の勉強で分からないことがあったとき、どうする?」

「それは……ママに言ったり、親父に聞いたり、友達に相談したり……」

「そう、それが普通よね。でもママは、それが全部兄さんだったのよ」


 十数年ぶりに本家に足を踏み入れ、母の私室に入ったことで、桐子の記憶の蓋の鍵は普段より緩んでいたのかもしれない。


「私が生きてそこにいるってことに気づいていたのは、兄さんだけだったわ。私は幽霊みたいなものだったのよ」


 心の中で、母の抽斗から持ち出した小瓶を握りしめながら、甦った苦痛に堪えていた。


「兄さんがいなければ生きてこられなかった。喩えとかじゃないの、本当に、兄さんだけが私を人間として扱ってくれたのよ」


 伊織は母の言葉に実感が持てず、黙って聞くことしか出来なかった。

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