第267話
経円の口から語られた事実に、桐子は息をすることすら忘れそうになった。
ずっと自分に対して優しく親切に接してくれていた愛子が、そこまで自分を憎んでいた、ということが、やはりすぐには受け入れられなかった。
「殺そう、と、って……、それは、喩えとして、ですか?」
「……桐子様は、ご結婚直前に大きな怪我をされましたよね」
桐子は絶句する。そして急勾配の地下鉄の階段を転げ落ちた時の記憶がまざまざとよみがえった。
それは、今までただの一度も思い出したことのなかった記憶だった。
「会社を出たところから、桐子様を追っていたそうです。人混みの中を具合悪そうに歩いている姿を見て、魔が差した、とおっしゃっていました。そして、背中を押してしまった、と」
桐子はグラリと視界が歪んだ、貧血を起こしたように、ソファに手をついて体を支えた。慌てた経円が駆け寄ってきたが、問題ない、と首を振った。
「でも、どうして……。まだあの時は兄さんと愛子義姉さんは結婚していなかったから、私とも会っていなかったはずなのに……」
「それは……」
続く経円の告白に、今度こそ返す言葉が無いほど驚いた。
◇◆◇
慧然寺で住職夫妻と昼食をとってから、桐子は帰宅の意を伝えた。
「今日は色んなお話をしてくださってありがとうございました」
「いえ、もしこの後、おひとりで思い出してお辛くなったら、またいつでもいらしてください」
「ありがとうございます」
「それと……。もし出来ましたら、伊織様や一花様にも、千堂家について教えて差し上げる機会をもっていただけますでしょうか」
「……二人は、そのためにこちらへ?」
経円は頷く。
「先代ご当主夫妻、お二人から見ると祖父母にあたられる方について何も知らないとおっしゃっていました。知らないことは不安と恐怖の根源になります。何とか理解しようとしていらっしゃる。私共のところへ来てくださったのは賢明なご判断で、そうでなければどんな災いに巻き込まれないとも限りません。何といってもお二人は、千堂家の後継者であることは事実なのですから」
桐子は苦し気に顔を歪ませつつも、頷き返した。
「それは兄と、一度しっかりと話をしなければいけないと思っています。私が……ずっと逃げてきたせいで、色んな人に迷惑をかけている」
「桐子様、これが、転機、というものではありますまいか」
「転機……」
「タイミング、と申し上げたほうがいいでしょうか。どんなものも、気づいたり行動に移すのに必要な時機というものがあります。もし桐子様が今まで逃げてきた、と思っていらっしゃって、それに向き合おう、と考えを変えられたとしたら、それは転機が来たのだと思いますよ」
「私に……向き合えるでしょうか」
「今の桐子様には、あの頃には無かったものがあるのでは?」
「……あの頃?」
問い返す桐子に、経円はにこりと微笑むだけだった。
◇◆◇
「ただいま」
桐子は家の玄関を開けて、帰宅を告げる。
二人はもう外出しているか、と思っていたが、どちらも在宅であることは玄関を開ける間に気がついた。
もしかしたら無視されるかもしれない、と覚悟していたが、リビングの入り口から広瀬が顔を出した。
「おかえり」
「ごめんなさい、黙って出かけて」
「せめて電話は出てほしかったよ。お義兄さんにまで連絡しちゃったよ」
「ごめん、兄さんには私から謝るわ。……伊織は、学校? それとも、部屋?」
広瀬は、部屋にいるよ、と答えながら、桐子の様子が今朝までとまた違っているように感じて、それ以上声をかけることが出来なかった。
◇◆◇
桐子は伊織の部屋のドアをノックした。
「伊織? いるのよね、ママ、入ってもいい?」
しばらく待ったが、返事はない。だが物音から、中にいること、桐子の声は聞こえているらしいことは伝わってきた。
「入るわね」
もう一度断ってノブを回す。
伊織は、部屋の真ん中に座って、入ってくる母を冷たく見つめ返していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます