第266話
「何からお話いたしましょう。と言っても、私が存じ上げていることしかお伝え出来ませんが……」
「出来れば全部。私は……自分のことも、多分全然知らないまま生きてきたような気がします」
経円は頷く。妻が出してくれた茶で口元を潤すと、ゆっくりと話し始めた。
「愛子様も、今日の桐子様のように突然いらっしゃいました。その時は、まさかそれが最後にお姿を見ることになったとは思いもしませんでしたが」
経円の耳には、蝉の声まで甦って聞こえてきた。
◇◆◇
「ずっと誰にも言えなかったことがあるんです。でも、もしかしたら文哉は気づいているかもしれない。気づいた上で黙っているのはどうしてなのか分からないけれど」
経円は返事をせず、愛子の言葉をただ静かに聞き続けた。
「一花はね、文哉の子じゃないんです。私が……今までにたった一人愛した人の子なんです。その人には奥さんがいて、私のことなんて遊び相手の一人だと思ってる。でもどうしてもその人との繋がりが欲しくて……。子どもを理由に結婚を迫ろうなんて思ったわけじゃないです。妊娠したときも言いませんでした。尤も、連絡が取れなくなっていたんですけどね」
愛子の目は、どこか遠くを見つめていた。
「頼れるような親も親戚もいなかった。でもどうしても堕ろしたくなかった。かといって一人で産んで育てるのか、って考えたら怖くて仕方が無かった。どうしたらいいか分からなくて、駅のホームのベンチに座り込んでました」
「何時間そうしていたのかな。地下鉄だから外の明るさも分からなくて、でもどんどん人が少なくなっていって。帰らなきゃいけないかな、って思ったとき、声をかけてくれたのが文哉でした」
「一瞬、女の人かと思いました。綺麗な顔してて、すごく自然に優しく声かけてくれたから。ずっと私が動かないのを、反対側のホームから見てたんですって。変な人ですよね。どうしても気になって、放っておけないって思ったとかで、缶コーヒー持って、どうぞ、って」
「でも、ごめんなさい、カフェインは、って言ったらびっくりされて。で、妊娠してること、でも子どもの父親には頼れないこと、堕ろしたくないこと、どうしたらいいか分からないことを、なんかボロボロ喋ってました。駅員さんが申し訳なさそうに終電を伝えに来るまで、何時間も。そのままタクシーで、家に連れて行ってもらいました。千堂家ではないです、文哉が、桐子ちゃんがお嫁に行くまで二人で住んでいた家。それでも十分大きくてびっくりしたんですけどね。まだ若そうなのに、って」
「しばらくしたら、突然求婚されました。私が妊娠中だったから、そういうことは一切しないままだったし、大体付き合ってるとも言えない関係だったのに。びっくりして、なんで? って何度も聞いちゃいました」
当時を思い出したのか、ずっと無表情だった愛子が微かに笑った。
「お腹の子供には父親がいたほうがいい、って。そしてその時、初めて千堂家について教えてくれました。すぐには理解できませんでしたよ。騙されてるんじゃないかって思ったくらい。想像のはるか上の世界でしたから。でも……嬉しかった。私なんて誰からも必要とされない人間だと思っていたから、やっぱりすごく、嬉しかったんです。だけど……」
言葉の通り幸せそうに綻んでいた愛子の表情が、一転曇った。
「まさか、桐子ちゃんが妹だなんて思わなかった……。同じ名前なんだから、すぐに調べるか聞くかすればよかった……」
恐怖と自嘲と後悔で愛子の顔がどんどん歪む。経円は思わず声を掛けずにはいられなかった。
「桐子様が、何か……?」
経円の声に顔を上げた愛子は、絞り出すように告白した。
「私は……一度、彼女を殺そうとしたことがあるんです」
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