第265話

 供花も線香も持たず、桐子は、ただじっと墓石と向き合う。

 もちろん、この下に眠るのは両親だけではない。大好きだった祖父母も、そのまた更に上の先祖も数えきれないほど眠っている。

 そして、もう一人も。

 桐子は玉砂利が音を立てないようそっと足を踏み入れ、墓碑を読む。一番新しい名前を、そっと指でなぞった。


(愛子義姉さん……)


 まだ愛子が生きていた頃を思い出す。

 初めて会ったときから優しく接してくれて、環以外の年の近い同性に親切にされることがくすぐったくて嬉しくて、桐子もすぐに愛子を好きになった。

 伊織の一歳違いで愛子に一花が生まれ、二人を並べて一緒に世話をした。先に立って歩き始めた伊織を追いかけようとする一花が転ぶのを、慌てたり笑ったりしながら見守った。

 ベビーカーを押して二人で買い物に行ったり、子どもたちを公園で遊ばせた。母親としては桐子のほうが先輩なのに、何かあるとすぐに愛子に相談していた。


 子どもたちの成長に合わせて少しずつ疎遠になっていったが、それでも折々の挨拶は欠かさなかった。きっとあのまま、愛子と兄は一花を間に幸せに暮らしているのだろうと思い込んでいた。


 それが突然崩れた夏を、今でも桐子ははっきりと覚えている。

 駆け付けた病院で、すでに息を引き取った愛子の横で身動ぎしない兄。事態が呑み込めずパニックになって、駆け込んできた桐子にしがみついてきた一花。

 そして青白い顔で横たわる亡骸になった愛子。

 その顔は、疲れ切っているようにも、安心しているようにも見えたが、無論そんなことは誰にも言えなかった。

 何も話そうとしない文哉を手伝って葬儀を終えた後は、一花にだけ声をかけて帰宅した。その後はぱたりと両家の交流は途絶えた。


 まさか、愛子が自死だったとは、広瀬に言われるまで想像もしていなかった。

 そして、その原因が、自分と……。


「……桐子様?」


 思考が、背後からの呼びかけで途切れた。反射的に振り返ると、袈裟姿の経円が驚いた表情で立っていた。


「……ご無沙汰しております」

「こちらこそ……。よくお越しくださいました。今日は、お墓参りで?」


 桐子は苦笑して首を振り否定した。自分が進んで墓参する人間ではないことを経円は知っているはずだったから、隠す気もなかった。


「愛子義姉さんに、会いたくなったんです」


 もう一度墓石を振り返る。まるでそこに愛子が立っているかのように。

 

 その言葉を聞いて、経円は息を飲んだ。そしてその気配を、桐子は逃さななった。


「愛子義姉さんについて、何かご存じですか」


 桐子の表情からは何も読み取れない。苦しみも、悲しみも、怒りも、ショックも。

 そうした感情を突き抜けた、更に奥の何かを求めてここまで来たのかもしれない、ということは伝わってきた。


 経円は小さく頷いた。


「まずは中へ。温まって落ち着いてからお話いたしましょう」


 桐子はその背を追いながら、もう一度墓を振り返る。愛子が引き留めてくれないか、と期待した自分に嗤って、その後はもう振り返らなかった。


◇◆◇


 寺務所に入ると、経円の妻が驚いたように出迎えてくれた。


「まあまあ、ようこそ。寒かったでしょう、今日はおひとりで? どうぞどうぞ、中へ。お茶すぐお持ちしますね。桐子様がお好きな最中もありますよ。そうそう、もしよろしければお昼ごはんも」


 はしゃいで桐子を接待しようとする妻を、経円が押しとどめる。


「桐子様と大事な話があるから、奥の応接室にお茶を。後は呼ぶまで来なくていいから」

「すみません、急にお邪魔して。お昼ご飯は私もお手伝いしますね」


 あらあらそんな、と再び話が始まりそうな妻を置いて、桐子と経円は廊下を進んでいく。


「奥様、お元気そうで」

「騒々しくて申し訳ありません。あれはお客様が好きで。先日も」


 と、言いかけたところではっと口を押える。桐子はその仕草でピンときた。


「もしかして、誰か来ました? 兄か、広瀬か……。それとも」


 応接間のドアを開けながら、経円が頷いた。


「はい、少し前に……。伊織様と一花様がおいでになりました」


 桐子は深く息を吸った。

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