第264話
広瀬との電話を終えたあと、文哉はしばし考えこむ。
桐子が何も言わず自宅から姿を消した。
広瀬が狼狽えるのも無理はない。子どもの頃を含めても、そんなことをしたのはこれが初めてだった。
携帯も繋がらない。どこへ行ったのか、連絡を絶つくらいなら環や植田の劇団ということもないだろう。
ふと、もう一人思い浮かんだ人物がいた。まさか、と思いつつ、文哉は電話を掛けた。すぐに相手が応答した。
『はい』
「おはようございます、松岡さん」
『おはようございます。珍しいですね、朝一とは。何か進展でも?』
文哉は少し迷ったが、桐子が突然自宅からいなくなったことは伝えないことにした。
「お忙しい時にすみません。実は全く別件で、知人の会社がM&Aを検討していまして、そのご相談に乗っていただけないかと……」
『もちろん、私の専門ですし。もしご先方がよろしければ、直接ご連絡させていただきますが』
「ありがとうございます。では一度確認を取ってからまたご連絡させていただきます」
仮の用事を伝え終わると、文哉は電話を切った。
もしも桐子が松岡の許にいる、または連絡をしているなら、今のやり取りで何らかの手ごたえがあっただろう。しかし松岡が気にしていたのは各務についてのようだった。
さらに言えば、桐子のことだけでなく一花たちと顔見知りだったことを隠していたことで、松岡は文哉に二重に負い目を感じているはずだった。その彼が、この期に及んで隠し事はすまい、と信じていた。
桐子は松岡のところにはいない。
だとすれば、どこへ行ったのか。
文哉にも見当がつかなかった。
◇◆◇
友梨は出社すると広瀬の姿を探すのが無意識のうちに習慣化していた。
大抵は友梨よりも早く出社している。背が高く姿勢のいい広瀬は、広いフロアの中でもひときわ目立つ。
だから、その姿が見えないだけで、友梨は自分が不安定になることに気がつき始めていた。
そして今日も、間もなく始業というのに広瀬がいない。
つい、隣の席の社員に話を振ってしまった。
「マネージャー、やっぱり体調戻ってなかったんでしょうか。いらっしゃらないですね」
「ん? 香坂さん? なんかお家の急用とからしいよ。用事があれば電話でもメールでもしてかまわないって」
友梨は笑顔で応えながら胸の内で眉を寄せた。
(家の急用?)
仕事をする振りをして、兄の裕之にメッセージを送った。
◇◆◇
目当てのものを手に入れた桐子は、すぐに本宅を辞した。用さえ済めばここにい続ける意味は無かった。
十数年ぶりに訪れた生まれ故郷は、やはり桐子にとっては恐怖の塊でしかなかった。
車を呼ぶ、と言われたが、桐子は断って、徒歩で敷地から出て行った。
しばらく歩いて国道に出ると、通りかかったタクシーを停める。そして行き先として菩提寺の慧然寺を伝えた。
手元には、先ほどの小瓶が握られている。
不思議と家を出てきた時の恐怖が和らいでいた。
◇◆◇
「……家の都合?」
昼休みに入った友梨は、電話だけ持ってビルの外へ出る。すぐに裕之に電話を掛け、広瀬が欠勤していることとその理由を伝えた。
『何かあったんだな、確実に』
「でも、にいさんはまだ何もしてないんでしょ?」
裕之は電話口で無言で頷きながら、考え込む。
自分が直接動いたのは、最近では文哉に対してだけだ。それも、三鷹の屋敷に全員呼ぶよう伝えただけで、これから何をしようとしているのか、までは開示していない。
各務の予想では、文哉が先に手を回して秘密をばらすような性格ではないはずだった。
とすると、不確定要素は子供たちだった。彼らが何かしらの動きをしたせいで、桐子たち夫婦に何かが起きているのかもしれない。
「にいさん?」
『友梨、この間頼んだ件だが、来週末ではなく今週末にすることは出来るか?』
「え? ああ、それは……大丈夫よ。別に道具が必要とかじゃないし」
『じゃあ、予定を変えよう。急がなければ計画が台無しになる』
「……分かった」
『もし香坂広瀬について何か分かればすぐ教えてくれ』
そして忙しなく電話は切れた。
友梨も早足で荷物を取りに帰った。そして仮病と偽って、この日は早退した。
同時刻、桐子は慧然寺に到着していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます