第263話
気がつけば、桐子は千堂家本宅の前に来ていた。
高い鉄の柵、外部を拒絶するような壁に囲まれた大きな館を前に、普段なら感じるはずの恐怖はなく、そっと呼び鈴を押していた。
数秒後に中から応答があった。文哉が委託している管理会社のスタッフだろう。しかしカメラ越しに桐子を認めると、驚いたような声が上がった。
『す、すぐに参ります。少々おまちください』
桐子は無言でカメラに向かって頷く。相手が誰だか全く想像できないが、向こうは桐子を知っているようだった。文哉が写真でも渡しているのだろうか。しかし今はそんなことはどうでもよかった。
遠くで重い鍵が開く音がする。しばらくすると中年の男性と若い女性の二人が走ってきて、門を開けた。
「せ、いえ、香坂桐子様でいらっしゃいますね。今日は、ご来訪のご予定が……」
桐子はまた無言で首を振る。
「違うの。ちょっと……中に入りたくて。いいかしら」
「もちろんでございます、どうぞ」
桐子は頷いて、二人の後に従った。
「では、御用がございましたらお呼びください」
そう言って男性のほうが下がると、桐子は部屋に一人になった。
真っ先に向かったのは、亡き母の居室。
亡くなった時のそのままに、しかし掃除は綺麗に行き届いていた。
抽斗を開けると、微かに母の使っていた香水が漂ってきて、桐子は恐怖で身を固くする。一瞬息をつめてそれをやり過ごすと、中に目を落とし、手を伸ばした。
「あった……」
手に取ったのは、茶色の小瓶だった。
◇◆◇
伊織との会話を終えた広瀬がリビングに降りると、いるはずの桐子の姿が無かった。不思議に思いつつ、伊織を休ませるために学校への連絡を頼もうと家の中を探したが、どこにもいない。
不審に思って桐子のデスクを探すと、財布や携帯電話が無かった。
出かけたのか。
そう思ったが、普段の桐子ならゴミを出しに行くのでも一声かける。その彼女が財布を持って出るのにメモすら残していないのは明らかに異常事態だった。
今の伊織に桐子の話題は持ち掛けられない。とすると、広瀬が頼れる相手は一人だけだった。
桐子の行き先を文哉に聞くのは、正直なところ業腹だった。だが他に術がない。土曜の一件以降、桐子の状態が不安定なのは事実だった。
時間帯的に出ないことも想定したうえで文哉の番号にかけるが、期待を外してすぐに応答があった。
『おはよう。どうしたの?』
「すみません、朝一に。実は……桐子の姿が見当たらないんです」
電話の向こうで文哉が息を飲む気配が分かった。
「そちらに伺ったりはしてないですよね」
つい、剣呑な空気のまま問い詰めるような口調で続けてしまう。しかし文哉は即座に否定した。
『いや、うちには来ていないと思うし、こっちにも連絡はないな。いなくなったのって、いつ?』
「さっきまで僕と伊織で話をしていたんです。それが終わって下に降りたらいませんでした。どこかへ行くとも聞いてないし、でも財布もない、メモも
『それは……桐子らしくないね。分かった、探してみる』
「申し訳ありません」
『いや、こちらこそすまない。広瀬くんは会社だろう? 仕事前に迷惑かけて悪かったね』
文哉の謝罪は、身内としては当然の弁ばかりだった。しかし今の広瀬にとっては、それはすべて『桐子は自分のものだ』という主張にしか聞こえなかった。
「こちらこそ、妻がご迷惑をおかけします。僕も今日は休んで家にいます。もしどこかへ迎えに行かなければいけないなら連絡ください」
『……わかった、そうするよ』
先に文哉のほうから電話が切れた。広瀬はスマホをテーブルに置くと、ソファに腰を下ろしてため息を吐いた。
「今の……伯父さん?」
部屋から出てきたらしい伊織が、不満げな声で問いかけてきた。
「うん。ママから連絡が来てないかって聞いてみたんだ」
「いたの? 伯父さんのとこに」
「いや。あちらにも連絡は来てないらしい」
「良かった……」
伊織の安心したような呟きに、広瀬は苦笑を返す。
「でも、どこに行ったんだろうね、ママは」
父の顔を見ながら、伊織は心の中でつぶやいていた。
(今は心配する気になれない……。ママの顔は見たくない)
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