第262話

 伊織の部屋に入った広瀬は、勉強机の椅子に腰を下ろし、伊織が話し始めるのを待った。

 自分の出勤時間も迫っていたが、今は伊織を優先させるべきだと思った。


「どうした? 何か言いたいことか聞きたいことがあったんじゃないのか?」


 広瀬の穏やかな声に、伊織の肩がピクリと反応する。

 そしてゆっくり振り返ると、黙って何かを差し出した。

 目線を動かした広瀬は、それの正体を知って絶句した。


「ごめん……、前に、親父の部屋から持ち出した。勝手に持ってきたことも忘れてた。だけど、昨日……中、見ちゃった」


 伊織は無言の広瀬を見る。目を見開き、微かに震えて冷や汗を浮かべている表情で、自分の想像が半ば当たっていることを悟った。


「親父は、これ、読んだんだよね?」

「……もう一つも、見たのか」

「え?」

「もう一通入っていただろう」


 伊織は言われたことが思い当たらず、大きいほうの封筒の中を見る。言われてみればもう一つ入っていた。


「ほんとだ、気がつかなかった」


 伊織がそれを手に取ろうとしたとき、ガタっと大きな音がしたと思ったら広瀬がものすごい力で伊織の手を押さえた。


「いい、見なくていい」

「で、でも、同じ封筒に入ってたんだったら、こっちも……」

「いいんだ!」


 伊織が言い終わる前に広瀬は強くそれをはねのける。そして力いっぱい伊織を抱きしめた。


「いいんだ。お前には関係ないことだ」

「お、親父、苦しい……」


 伊織は藻掻くが、広瀬の腕はびくともしない。身長はほとんど同じくらいになったとはいえ、体格はまだ成長途中の伊織では、広瀬の全力には到底かなわない。

 骨が軋むほどきつく抱きしめられるのをひたすら耐えていると、しばらくしてその力が緩み、体を離してくれた。


「ごめん、僕が動転しちゃだめだよね……」


 そう言いつつも、広瀬は伊織の手から手紙と封筒を回収する。せめてだけは見られたくなかった。

 たとえ事実はそうであったとしても、伊織から他人と思われることに、今はまだ耐えられそうになかった。


 一息ついて、椅子に腰を下ろして、広瀬は口を開いた。


「この手紙、読んだんだね。一花ちゃんのお母さんの手紙」


 伊織はコクリと頷いた。


「ママと伯父さんは……兄妹なんだよね」

「……そうだね」

「義理とかじゃ、ないんだよね」

「見ればわかるだろう? 二人の顔はそっくりだ」


 伊織は再び頷く。


「でも、二人は……愛し合ってるの?」


 伊織は言いながら、無限に続く闇に絡めとられるような恐怖で体が震えた。

 悲しいのか、おぞましいのか、怖いのか、怒りなのか。その全てのようでもあり、どれも違う気もする。

 ただ、決して認めたくない現実が目の前にあることだは分かっていた。


「愛し合う、というのが、何を指すのかは分からない。ただ……二人には、二人にしか分からない強い絆があることは事実だろうね」

「そのせいで、一花のお母さんは自殺したの?」

「……お前は賢いね。あの手紙で、そこまで想像出来たんだね」

「だって……最後、って……。親父に見損なわれたまま死にたくない、って」


 伊織は愛子についてそれほど多く思い出があるわけではない。ただ、一人の身近な人間が自らの意思で命を捨てるほど追い詰められたという状況を作り出したのが、あろうことか自分の実母とその兄である、という事実が伊織を打ちのめした。


 気がつけば、父の膝に縋り付いて泣いていた。


「みんな、ママは可哀そうだったって言う……。話を聞いて、俺もそう思ったよ。でも……そのせいでどれくらいの人が不幸になってるんだろう。愛子伯母さんだけじゃないよね、きっと他にもいるんだ……」


 広瀬は、文哉のまだ小さな頭を撫でながら何も言えなかった。


 伊織の言った『どれくらいの人が不幸になったか』とは、一番の被害者はもしかしたら伊織自身かもしれないからだった。




 全てを部屋の外で聞いていた桐子は、ふらりとした足取りでその場からいなくなった。

 そして、そのまま家から出て行ってしまった。

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