第260話
スタッフがお茶を出して下がってから、文哉は正式な契約書を取り出し、重要事項の説明を始めた。
各務は一つずつ頷きながら一緒に確認を続ける。
そして署名と捺印を続けた。
「普段、パソコンばかり使っているから、手書きは疲れますね」
「分かります。自分の住所や名前ばかり何度も書くのは、存外面倒ですよね」
朱肉とインクをふき取るティッシュを受け取りながら、各務は文哉の説明に合わせてページをめくる。
「屋敷の引き渡し日ですが、世話人夫婦の転居作業もありますので、今年の年末、十二月三十一日でお願いしたいのですが」
「構いません。私も、お屋敷に住むわけではありませんから」
「ありがとうございます」
各務の返事を確認してから、引き渡し予定日を手書きで記入する。
全てがスムーズに進んでいく。それが想定外で、文哉は注意深く各務を観察する。
「最近は、もうあちらへ伺うことはないのですか?」
ふと、各務が文哉に問うてきた。文哉は頷く。
「特に用もありませんし、連絡は電話で済みますしね。……でも近日中に一度行こうと思っています。転居とその後のことを相談するのに、長年世話になった人たちに電話で済ませるのも失礼ですし」
「そうですか。では、ご提案したいことが」
言いながら各務は、全ての記入と捺印を終えて、契約書から顔を上げた。
「千堂家の皆様にとっては、これであのお屋敷とはお別れになってしまいます。最後に、皆様をご招待してお別れ会をしたいと思うのですが、如何でしょうか?」
文哉は各務の意図が読めず、眉を寄せる。
「お気遣いいただいてありがたいですが……、過去に不動産を譲渡する際には、特にそういったことはしておりませんので」
「ですが、あのお屋敷は特別では?」
「……とは?」
「それは、千堂さんご自身がよくご存じなのでは」
笑いながら睨みつけてくるような各務の目が、文哉の記憶を弄る。
この男は、やはり何かを知っているのか。
何を、と返すのも躊躇していると、各務は余裕たっぷりに茶碗に口をつける。
「もし千堂さんご自身に興味は無くても、お嬢様や甥御さんは、どうなのでしょうね」
一花たちの存在を持ち出され、文哉の顔色が変わる。
「子供たちは……」
「さすが、名高いお血筋を引くお子様方だ。著名な弁護士まで味方につけて、どうやらあちこち嗅ぎまわっていらっしゃるようですね」
「弁護士……」
「まあ、あの方から見れば、甥御さんは大事な女性のお子さんですからね。頼まれれば否と言えなかったのでしょう」
文哉は思わず隣室を振り返りそうになる衝動を抑えた。
そして松岡と桐子の関係も知っているらしい各務に対し、もう芝居を続ける必要が無いことを悟った。
ふう、と一息つくと、各務を正面から見据えた。
「何が望みだ」
「……やっと気づいていただけましたか。やれやれ、長かったなぁ、ここまで」
「屋敷ならただでくれてやる。だがお前の言いたいことは、そんな程度のことじゃないだろう」
「億単位の資産を、まるで腐った弁当みたいに放り出すのか。まあいいさ、黙って拾ってやるよ」
「言え」
「だから、全員首をそろえて集まれって言ってるんだ。全員だ。あんただけじゃない、娘も、妹も、その亭主も、甥っ子も。そうだな、どうせなら松岡さんも来てもらおうか。折角だからもう一人の愛人にも声をかけてもらえば話が早い」
「もう一人、って」
「あんたは知らなかったか。そりゃご愁傷様。大事な掌中の珠は、あんたの気持ちなんか知らないであっちこっちに男作って好きにやってるよ。亭主にも隠れていい気なもんだな。ま、そっちはそっちで好きにやってるんだからあいこか。やんごとなき方々ほど乱れるって本当だな」
各務の下卑た笑い方は、妙に様になっていた。文哉はまるで万華鏡を覗き込んでいるような気分だった。
「こっちのメンツも揃えておこう。あんたが探し回って見つけられなかった人も連れて行くよ。嬉しいだろう?」
驚きと不快感を腹のうちに押し込めながら、文哉は各務に合わせて立ち上がる。
「十日後の土曜日にしよう。必ず全員集めろ。なに、暴力をふるったり暴れたりするわけじゃないから、それは安心してくれ」
言うだけ言うと、各務は文哉の返事を待たずに部屋から出て行った。
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