第259話

 その後は食事をする気分ではなくなり、食べかけのまま伊織は自分の部屋へ逃げ込んでしまった。

 部屋のドアを閉め一人きりになると、一旦は鎮まったかに思えた怒りが込み上げてきた。


 ベッドに飛び込むようにして横になるが、すぐに起き上がって布団や枕を力任せに叩き続ける。バフバフした感触が物足りず、反射的にベッドサイドの目覚まし時計に手が伸びるが、今さっきの母の青ざめた顔を思い出して踏みとどまった。


(ダメ、って、一花がダメ、って、なんだよそれ……。意味わかんねえよ、だって一花がこの家にいた時、親父だってママだってすごく楽しそうで……。今日だって伯父さん、俺には何も言わなかった。てことは、伯父さんが反対したわけじゃないんだよな? じゃあ、親父はなんであんなことを……)


 ショックで、悲しくて、腹が立って仕方がない。このままでは遠からず当初の予定通り自分は父に連れられて英国行きが決定する。いつ戻ってくるか分からない。その間一花を、中途半端な状態で謎だらけの千堂家に置き去りにすることになる。


(そんなの……出来るわけないじゃないか。一花は、一花は俺が)


 そこまで考えた時にハッとする。今日、文哉に対して自分が投げかけた質問が耳の奥でよみがえった。


『兄妹ってそういうものなんですか? 他人には任せられない、自分が全部面倒見るんだ、って思うくらい、大事なんですか』


 今、自分が感じていることが、どうしてそれとシンクロするのか分からず、それでも衝撃でその場に突っ立った。


 その時、本棚でカサリ、と音を立てて何かが落ちた。

 それは、以前父の書斎から勝手に持ち出した封筒だった。


◇◆◇


 午前十時からの各務との契約前に、文哉のオフィスに松岡が到着した。

 万が一に備えて裏口から中へ案内する。スタッフに連れられて応接室に入ってきた松岡は、レザージャケットにジーパン姿で、文哉は目を丸くした。


「似合いませんかね……。スーツだと、遠目にもバレるかな、と」

「いいえ、よくお似合いですよ。一瞬どなたか分からなかったくらいです」


 松岡はばつが悪そうに頭をかきながら、今日の予定についてすり合わせを始めた。


「この後十時から各務氏と不動産売買契約を取り交わします。金額や諸条件は事前に渡してありますので、その確認だけの予定です。後は引き渡し日についてですね。敷地内に住み込みで管理業務を請け負ってくれている夫婦がいます。彼らの転居などを含めて、こちらの希望としては十二月三十一日で交渉しようと思っています」

「妥当な線ですね。ご当主が懸念されているのは、どういった部分ですか?」

「各務氏の正体は、私たちの両親による策謀の犠牲になった一家の次男です。そして妹を暴行した犯人の弟でもある。……すんなり引き渡しが完了するとは思えないのです」

「それは、支払いとか?」

「金銭面は、正直私はどうでもいいと思っています。私の目的は、学者や自治体に邪魔されずあの家屋を取り壊すことですから。各務氏にとっても千堂家の所有物を破壊することへ異存はないはずです。だとしたら……安くはない買い物や、私共と接触を取ることのリスクを犯してでもしようとしている目的があるはずです。それを、今日の会話を含めて一緒に探っていただきたい」


 なるほど、と、松岡は黙って腕を組む。


 松岡も一人で調査を進めてみた。各務の資産は、文哉が提示した三鷹邸の額面とほぼ同額だ。全財産をなげうつなら、確かに文哉が言うように何か裏があると思うほうが自然だった。

 各務については、どこかで必ず調査が行き止まる。かなり注意深く用意周到な性格なのだろう。

 もしかしたら自分が文哉側についたことも、気がついているかもしれない。


 その時、ドアの横の内線電話が鳴った。時計を見ると十時五分前だった。


「いらしたのでしょう。では先生は、そちらの扉から隣の部屋へ。よろしくお願いします」


 松岡が頷いて別室へ消えたことを確認し、文哉は内線に出る。そして数分後、コートとビジネスバッグを手にした各務が、スタッフに案内されて現れた。


「ようこそ、お越しくださいました」


 松岡は隣の部屋で、ボイスレコーダーをオンにした。

 

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