第258話

 釈然としないまま伊織が自宅へ帰ったのは、もう広瀬も帰宅した後だった。


「おかえり。僕より伊織が後なんて珍しいね」

「う、うん。ちょっと友達と喋ってて遅くなった」


 咄嗟に吐いた嘘はあまりに不自然で、突っ込まれるのでは、と緊張したが、広瀬は「そうか」とだけ言ってリビングへ戻った。

 伊織がその後について中を覗くと、いつもと同じように母が夕食の準備をしていた。


「ママ、ただいま」

「あっ、おかりなさい……」


 やはり桐子の様子はおかしかった。懸命に笑顔を作っているが、昨日同様に何かに怯えているように見える。

 ちら、と父を見るが、新聞を広げていて顔が見えない。伊織たちのやり取りは見ていないようだった。


「すぐご飯にするわね、ごめんね、遅くなって」

「遅くなったのは俺だし。ゆっくりでいいよ、俺、着替えてくる」


 そのまま自室へ行こうとしたが、もう一度立ち止まって振り返る。母の横顔はいつもの明るさも美しさも翳って見えた。

 伊織の胸に、よく馴染んだ不安がよみがえる。

 文哉が全てを話してくれれば、これは消えるのだろうか。

 今は文哉を待つしかないと分かっていても、追い立てられる落ち着かなさは消えなかった。


◇◆◇


 夕食を囲みながら、何故かここ数日ずっと機嫌が良い広瀬が口を開いた。


「週末に話せなかった、来年からのことだけど……。伊織はこっちに残りたいんだよね」


 唐突な話題に、当の伊織もすぐには返事が出来なかった。

 正直、この数日はそのことすら忘れるほど様々な情報に振り回されて、何かを考えて決断するような余裕はない。かといって、ここでなあなあにするわけにもいかない。

 今は一花を一人に出来ない。日本を離れるわけにはいかない。何より、自分が渡英する理由が見当たらない。


「うん。俺、日本に残りたい。進学も、こっちで考えたい」

「進学? この間話を聞いた弁護士の先生のことか?」

「それはまだ……確定じゃないけど、でも、こっちにいたいんだ、どうしても」


 伊織は箸を置いて、改まったように広瀬に向き直って訴える。


「残りたい理由に、一花ちゃんは関係してるのかな?」

「それは……うん」


 頷きつつ、気恥ずかしさで俯く。自分の顔が赤くなっている気がして、誤魔化すためにミートボールを口に突っ込んだ。


「じゃあ、ダメだな」


 懸命に咀嚼していたら、ごく普通の調子でさらりと、しかし伊織にとって非常に重要な決断を広瀬が下した。


「……え?」

「一花ちゃんと、お付き合いしてるんだろう? ママから聞いたよ」

「ダメ、って……?」

「一花ちゃんとのお付き合いだ。一花ちゃんと離れたくないから日本に残る、というなら、それもだめだ。伊織は来年、僕と一緒にロンドンに行こう。いいね?」

「ちょっ……、え? なんで? 一花はだって」

「ダメなんだ。わかるね?」

「わ、わかんないよ! なんで? 従兄妹だから? それとも伯父さんが反対したとか?」

「なんでもだ。絶対にダメだ。お前が誰とお付き合いしようが構わない。でも……一花ちゃんだけは絶対にダメだ」


 広瀬の顔から少しずつ微笑みが消えていく。柔らかいいつもの声が、どんどん低く強張っていく。

 こんな父を見るのは、伊織は初めてだった。だが、一花との交際を反対され、遠くに引き離されることを宣言されて、伊織は父の異変に気を配るどころではなかった。


 我慢できずに椅子から立ち上がる。勢いづいて椅子が倒れて大きな音を立てるが、それも聞こえていなかった。


「ふざけんなよ! なんだよそれ、一方的すぎるだろ! なんでダメなのか、説明しろよ!」

「駄目なものは駄目なんだ!」


 伊織の大声を押しつぶすように、広瀬はより大きな怒声で言い返す。

 その時、伊織の隣に座っていた桐子がガチャン! と派手な破壊音を立てた。

 見れば、茶碗を小皿の上に落としてしまったらしい。グラスも倒れてしまっていていた。

 

 伊織はぎょっとして横を見ると、桐子は目を見開いて、真っ青な顔で震えていた。二人の声も、自分が皿を落としたことも分かっていないようだった。

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