第257話

 文哉は狼狽える思考の中で、その時のことを思い出していた。


◇◆◇


 身重の体で急な階段を数十段転げ落ちた桐子は、むしろ命があっただけ幸いだった。体だけでなく頭も打っていた。とっさに腹を庇ったのだろう、自分の頭を守る余裕は無かったようだった。


 警察から連絡を受けて病院へ飛んで行った文哉も、広瀬には申し訳ないが、子どもの心配をする余裕は無かった。ただひたすら桐子の無事だけを祈った。

 処置を終えた医師から、桐子の命に別状はないこと、ただしお腹の子は流れてしまったことを聞いた時も、仕方がないと思った。とにかく桐子が無事だったことだけで、あとはけがの回復に専念すればいいと思った。きっと広瀬も分かってくれるだろう、と。


 本当ならそこですぐに広瀬を呼ぶべきだった。だが、目を覚ました時の桐子の異変が、それを許さなかった。子供がえりして、記憶まで失っているような桐子を、広瀬に会わせるわけにはいかない、そう思ってしまったことで、全てが狂った。


 あの時、恐れず広瀬を呼んでいたら。包み隠さず桐子の状態を伝えていれば。記憶が戻った桐子が流産したことを受け止められなくても、きっと広瀬なら支えて乗り越えてくれただろう。


 だがそうした広瀬への盤石な信頼も、今だからこそ持ち得ているものだった。まだ数回顔を合わせた程度だった文哉は、疵物になった妹のため、それを隠すことしか考えが浮かばなかった。


 その上、自分は……。


◇◆◇


 急に黙り込んで、瞬きもしなくなった文哉を、伊織はじっと見つめ続けていた。しかし次第に顔色が悪くなっていくように見えて、思わず声をかけた。


「伯父さん……、伯父さん?」


 伊織の声に文哉はハッとしたように顔を上げる。数回瞬きをして、目の焦点を伊織に合わせた。

 

「だ、大丈夫ですか……。そんな、大変な状態だったんですか?」


 気づかわしげにこちらを覗き込む、伊織の茶の強い瞳。それは桐子によく似ている。が、同時に、だった。


「ああ、そうだね……。地下鉄のホームに降りていく階段があるだろう。あれはとても急な造りになってるよね。あれを上から下まで転げ落ちたんだ。運が悪ければ亡くなる人もいる。桐子は幸い無事だったけれど、頭を打ってしまったんだ」


 伊織は石橋の話を思い出し、頷いた。


「記憶がおかしくなった、って、そのせいですか?」

「……そんなことまで聞いたんだね」

「俺を流産したかもしれない、ってショックで、記憶が混乱したんだろうって。ちょっと……驚きました。ママが、俺をそんなに大事に思ってくれてたんだなって」


 へへ、と頬をかきながら照れくさそうに笑う伊織を、文哉は複雑な愛しさで見つめ返した。

 大事な妹の生んだ、自分の子を。


「ママの怪我が治るまでの間、ずっと伯父さんが看病してたって聞きました」

「そうだよ。伊織くんは行ったことないかな。三鷹にね、別宅があるんだ。伊織くんから見ると曾お祖父さんにあたる人が住んでた。そこで静養したんだ」


 伊織は微かに緊張する。つい先日訪れたばかりだったが、今はそれを言うタイミングではないと判断し、頷くだけに留めた。


「……親父は、その時、どうしてたんですか?」

「広瀬くんは……、迷惑をかけちゃいけないと思ってね、桐子が元気になるまでは遠慮してもらったんだ」

「迷惑って、だって、夫婦でしょ?」

「まだその時は籍を入れる前だったんだ」

「それでも! 俺はもういたんだし、結婚するつもりだったんだし、夫婦みたいなものじゃないですか」

「そうだね。……俺が気を回し過ぎたかもしれないね」

「親父に会わせられないくらいひどい状態のママを、伯父さんはずっと世話してたんですよね」

「……うん」

「ママも……この間伯父さんが入院したとき、毎日病院行ってた」

「あの時は君たちに迷惑かけちゃったね。来なくていいって言ったんだが」

「俺、一人っ子だから分からないけど、兄妹ってそういうものなんですか? 他人には任せられない、自分が全部面倒見るんだ、って思うくらい、大事なんですか?」

「それは……」


 文哉は再び記憶と思考が遡るのを感じる。

 桐子が事故に遭ったときよりもずっと昔。

 あの広くて古くて冷たい家で、両親から互いをかばい合うように生きていた幼い頃まで。


 桐子には自分しかいないと思っていた。気遣ってくれる大人はいたけれど、両親と真っ向から対立してまで庇ってくれる人はいなかった。

 まだ小さくて弱くて、泣くことすら出来ずにただ母の言うがままになるしかなかった桐子を、自分だけが守れると思っていた。

 その自負があったからこそ、文哉も、あの牢獄のような幼少期を乗り越えることが出来た。

 本当は、桐子が自分を必要としていたのではなかった。自分こそ、生きるためには桐子が必要だった。

 この世で他の誰でもない、自分だけが桐子を知り、慈しみ、守ることが出来るのだ、と。


「普通では……無かったかもしれないね」


 気がつけば、文哉は言うべきではないことを口走っていた。みるみる青ざめる伊織に、申し訳ないと思いつつも、隠して誤魔化せばまた同じことを繰り返すかもしれない、という無力感にも陥っていた。


「すまない、これは問題が大きすぎる……。少し時間をくれないか」

「時間、って……」

「必ず全部話す。だからもう少し、待ってもらいたい」


 伊織はしばらく考えたが、頷くよりほかになかった。

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