第256話
伊織は電話を終えたその足で、顧問の元へ向かい、今日の練習を休みたいことを伝えた。
教室へ戻り急いで弁当をかき込みながら、思考は夕方の文哉との約束に囚われて、友人の声も授業の内容も全く頭に入ってこなかった。
◇◆◇
放課後、伊織は自宅とは反対方向の電車に乗って、文哉のオフィスへ向かった。文哉からは、伊織が来やすい場所で待ち合わせにしようか、と提案されたが、急遽約束を取り付けた手前、会社まで行くから大丈夫、と断った。
以前一花と二人で文哉の後をつけたことがこんなところで役立つとは思わなかった。
前回は外側からしか見なかった建物の中へ入る。伊織を見て受付に座っている女性が驚いたように目を見開く。こんなところに高校生が、という驚きだろう、と思うと居心地が悪かったが、怯まずに名乗った。
「あの、千堂文哉さんと、四時に約束している香坂と言いますが」
「……はい、社長より承っております。ご案内しますので、おかけになってお待ちください」
伊織は頷いて、ロビーにある革張りのソファに腰を下ろした。
自分以外に訪問者はいない。が、それほど大きくないビルなのに、入口の左右に警備員が立っているのが異様に見えた。
数分後、エレベーターの扉が開いて、文哉が出てきた。
「よく来たね。迷わなかった?」
「大丈夫です。……すみません、伯父さん、仕事中ですよね」
「うん、でも大丈夫だよ。会社の中だと電話とかかかってきそうだから、外へ行こうか」
伊織は促されて、文哉と並んで外へ出た。
背後では、文哉と伊織が並んだ姿を見たスタッフ数人が、驚きを隠せずに立ち尽くしていた。
◇◆◇
文哉が伊織を連れて行ったのは、前回一花と入った古い喫茶店だった。前回同様、初老のマスターが出迎えてくれた。文哉は慣れた様子で一番奥の席へ向かった。
「好きなものを頼んで。ああ、夕食前にあまり食べちゃうと、桐子が怒るかな」
笑いながらごく自然に文哉の口から母の名が出る。伊織はぎくりと身をこわばらせながら、文哉と同じブレンドコーヒーを頼んだ。
伊織は電話を掛けた時と同じく、大きく息を吸って吐き出すように疑問を投げかけた。
「率直に聞きます。伯父さんは、ママのことをどう思ってるんですか」
今度は文哉が緊張する番だった。昼の電話の様子から、そしてすぐにでも会いたいと言ってきたことから、自分にとって易しい話題ではないことは想像していた。ただ、まさか桐子の件だとは想定していなかった。
「……どう、って?」
「伯父さんにとって、ママって……どんな存在なんですか」
「伊織くんも知ってるだろ。妹だ」
「それだけじゃないですよね」
間髪入れず返ってくる伊織の言葉に文哉は言葉が詰まる。その緊張した顔を見て、伊織はなおさら止まらなくなった。
「ママにとって、伯父さんは多分、お兄さん、ってだけじゃないです……。ママにとって、伯父さんは、きっと……」
膝の上でぐっと拳を握る。言いたくはない、言えばそれが現実になるようで、ここにきてまだ母を信じようとしている自分にも腹が立つ。だが、それを伝えたくてここまで来たのだ、ということを思い出し、伊織は顔を上げた。
「ママにとって一番大事なのは、俺でも親父でもない。……伯父さんなんです」
吐き出すようにそれだけ言うと、自分の水を一気にあおった。
「ママがお祖父ちゃん達に大事にされなかったって話は聞きました。それから……中学生の時に事件に巻き込まれたことも。最初はショックだった。でも、だから今までずっとお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの話してくれなかったんだな、ってわかった。それに田咲さんが、ママは自分のことを大事だと思ってないんじゃないか、っていうのも、言われてすぐは意味が分からなかったけど、でもそれが本当だとしたら、ママの意思なんてないですよね。ママがしたいこととか、欲しいものが無い、だからいつでも俺とか親父が言うことを優先してくれるんだ、って思ったら、なんか納得できたんです。でもそのママが、親父との約束破ったんですよ」
息もつかず一気に吐き出した伊織は、ここでやっと文哉を見た。
「ママは、誰にも相談しなかった、親父に、いいか、って聞くこともしなかった。伯父さんの看病は全部自分がやる、って……。親父は、二人だけの兄妹なんだから当たり前だって言ってたけど……本当にそれだけですか」
伊織は頭に浮かんだことを全て吐き出していた。そうだ、あの時から自分は疑っていたのだ、と、言い終わってから気がついた。
「……桐子が大事にされなかったこととか、中学の時の事件とか、それは……誰から聞いたんだ?」
文哉の疑問は、伊織の求めたものとは違った。伊織は静かに首を振った。
「言えません。でも俺は、その人が嘘をつくとは思えない。ママを誤解しないでほしい、って言って、すごく言いづらそうに教えてくれたから」
文哉は伊織の言葉に頷き返す。頭の中では自分以外に昔からの事情を知っている人物を思い浮かべているが、その誰もが伊織と結びつかなかった。
「もちろん、伯父さんは全部知ってるんですよね、ママのこと……」
「それは、そうだね。ずっと一緒に育ったからね」
「じゃあ……ママが俺を妊娠してた時の事故のことも?」
伊織の言葉に、文哉は自分の鼓動が止まった気がした。
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