第254話
友梨は、帰宅すると腹立ちまぎれに自分のバッグを床にたたきつける。そして冷蔵庫から缶ビールを出すと、一気に飲み干した。
喉を通る冷たい感触で少し気持ちが落ち着いたように思えたが、今日一日の広瀬の様子、そして自分が帰ろうとしたときにほとんど無視するように反応が無かったことを思い出すと、再び苛立ちが込み上げてきた。
(今までありがとう、って、なに、それ……)
数日前、何故か普段と様子が違いガードが外れたようだった広瀬を、半ば強引にこの部屋へ引き入れた。
最初はベッドまで持ち込めるとは思っていなかった。広瀬の性格上、会社の女性の部下の一人暮らしの家に夜に上がり込んだ、という事実だけでも十分だと思った。
しかし気がつけば、自分が広瀬を組み敷いていた。
そして兄から『無理をするな』と言われたときも、逆に兄に反発心を感じていた。
自分は、無理なんかしていない。
嫌々広瀬に抱かれたわけではないのだ。
これは、自分の意思だったのだ、と。
自分は、長兄への、家族への復讐のため、計画を立てた次兄の力になりたくて、自ら進んでやったことなのだ。
それは、間接的にでも桐子にダメージを負わせるため。
先日の広瀬の様子からは、十分にその手ごたえを感じていた。
それなのに。
(まるで何もなかったみたいに……。すっかり立ち直って、それじゃまるで、私がしたことには意味がなかったってこと?)
友梨は手に持っていた空き缶をキッチンの流しに投げつけた。カーン、と甲高い音が耳障りで、思わず叫びだしたくなるのを必死でこらえた。
何でもいいから自分を傷つけたくてたまらなくなった。ふと、いつもの癖でナイフに手が伸びそうになったとき、投げ出したバッグの中から呼び出し音が鳴った。
ハッと我に返り、震える手で応答した。
「……はい」
『俺だ。悪いな、もしかして仕事中か?』
発信者は兄の裕之だった。友梨の緊張が一気に崩れる。そして別の激情が胸の内で渦巻くのを心地よく感じながら返事をした。
「うん、大丈夫。もう家だから。……どうかしたの?」
『あのな、例の件だが、俺が屋敷を購入することが決定した。それで、お前にも協力してほしいんだが……』
裕之の提案を聞くにつれて、友梨の心は暗い色に輝き始めた。
◇◆◇
桐子は時間を見計らって植田に電話をかける。
今日が劇団の年末公演初日だった。
いつもなら脚本担当の桐子も観にいくのだが、今の心境では外出自体おぼつかない。体調が悪いということで急遽欠席させてもらうことにした、連絡の電話だった。
やはり忙しいのか、呼び出し音が続く。かけ直そうかと思ったところで応答があった。
『お、香坂か。どうした?』
「ごめんなさい、今忙しいですよね」
『構わねえよ。何時に来る?』
「それなんですが……。ちょっと体調崩しちゃって、移しちゃうと悪いから、今日は欠席させてもらおうと思って」
『大丈夫か? もちろん、こっちは構わない』
「本当にごめんなさい。お詫びと言っては何だけど、差し入れの手配したからみんなで分けてください」
『逆に気使わせちまったな。ありがとう。ゆっくり休んで元気になれ』
植田のダミ声が耳に温かい。気がつけば電話口で微笑んでいた。
「それと……、田咲くんの代わりの稽古場って、見つかりました?」
『実は中々暇が無くてな、まだなんだ』
「そうですか。実は今使ってもらっている屋敷を売却する話が決定したので、そろそろ使えなくなりそうなんです」
『そういうことか。いや、俺たちもお前に甘えすぎてたな、申し訳ない。じゃあ田咲はまたこっちで引き取るよ。いつまで、っていうのは香坂に任せる』
何度も互いに詫び合う桐子と植田は、最後はそれに気づいて、笑って電話を切った。
本来ならこのまま兄に電話して内容を伝えるべきだった。しかし昨日の電話の印象が桐子を鈍らせる。
どうしてか分からない。ただ、文哉が自分の名を呼ぶ声を聞くのが怖かった。
『三鷹の屋敷の件、引き渡し日は兄さんに任せます。期日が決定したら教えてください。こちらから使用者に連絡します』
それだけ書いてメッセージを送信した。
そして折り返しの電話が怖くて、思わず電源をオフにしてしまった。
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