第253話

 翌週の月曜日から、広瀬はいつも通り出勤した。


「おはようございます。マネージャー、大丈夫ですか?」

「風邪だって? 珍しいな、無理するなよ」

「ずっと残業してましたもんね。でもよくなったみたいで良かったです」


 普段から病欠などしたことが無い広瀬が欠勤したことで、同僚や部下たちはかなり心配してくれていたらしい。広瀬は新鮮な驚きを感じながら、素直に嬉しかった。


「迷惑かけて悪かったね。もう大丈夫だから、休んで出来なかった分も頑張るよ」

「それ、休んだ意味なくないですか?」

「今日からしばらくは残業禁止ですよー」


 張り切る広瀬に温かいツッコミが返ってくる。改めて良い職場に恵まれたことに感謝した。


 まずは休んだ日の分の進捗と今日のスケジュールを確認しようと席に座ったところで、近づいてくる人影に気がついた。友梨だった。


「おはようございます」


 広瀬は、本当は友梨の顔を見るのが怖かった。その恐怖が広瀬の心の最後の余裕を踏みつぶし、結果として体調を崩した。

 だが、思いがけない週末を過ごしたことで、それは杞憂だったことを、友梨の声を聞いて確信出来た。

 広瀬は友梨の顔を正面から見つめ返した。


「おはよう、川又さん。金曜日は迷惑をかけたね」


 予想に反していつも通り振舞う広瀬に、友梨は戸惑う。友梨の予想ではここで広瀬が気まずそうに顔を背けたり、自分を無視したりするのでは、とも思っていた。

 しかし友梨はさらに一歩近づいた。


「心配したんですよ。……無理させちゃったかな、って思って」


 声を潜めて、言い終わってから意味ありげに笑って見せた。

 しかしそれでも、広瀬の笑顔は崩れなかった。


「川又さんにはずっと残業につき合わせちゃってたからね。でも今日からは無理しないようにするよ。ね」


 そう言うと、横に友梨が立っていることを忘れたかのようにパソコンと向き合い始めた。そのまましばらく待ち続けたが、広瀬が友梨を見ることはなかった。


◇◆◇


 各務との約束の日時を決める前に桐子に連絡を取らなくては、と思っていた文哉は、再度妹のスマホに電話をかける。

 結局土日は折り返しが無かった。桐子にしては珍しいことで、忙しかったのだろう、と想像しつつもずっと気になっていた。


 昼前は主婦には忙しい時間だろうか、と思ったが、数度の呼び出し音の後に応答する声が聞こえた。


『……兄さん?』

「桐子か。大丈夫か? 忙しいならまたかけ直すぞ」


 自分から電話してきながら、先回りするような声かけをする。しかし桐子からは構わない、と返ってきた。


「今、お前の知り合いが使っている三鷹の屋敷だが、売却先が決まったんだ」


 電話の向こうで桐子が息を飲む気配がした。


『それって……誰?』

「各務さんという、不動産会社を経営している人だよ」

『……そう』

「で、だな。契約を交わすとあの屋敷は持ち主が俺たちじゃなくなる。もちろん引き渡し日は調整する予定だが、今使っている人は、いつ頃まで使用予定かを聞きたくてな」

『そういうことなら……事情は伝えてあるから、いつでも中断出来ると思うわ』

「そうか? もし他の場所がいいなら、探すことも出来るぞ」

『大丈夫。そもそも、植田さんの劇団の子だもの。植田さんに相談するわ』

「わかった。じゃあ、日取りが決まったらまた連絡する」


 じゃあ、と言って電話を切ろうとしたが、桐子からの応答が無いことに再び文哉は不審感を募らせる。


「桐子、……桐子?」

『ご、ごめんなさい、じゃあ』


 すると突然、桐子のほうから電話を切った。

 文哉は、必要な連絡を終えられたことよりも、普段と違う様子の妹に、暗い予感が湧き上がるのを必死で抑えようとした。


◇◆◇


『桐子、桐子……』


 今の文哉の呼びかけが桐子の耳から離れない。

 なぜかどこかで聞いた気がして、しかしそれがいつ、どこでだったのか、どうしても思い出せなかった。

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