第252話

 翌日、伊織は帰宅した。

 玄関ドアを開ける時、かなり覚悟が必要だった。


 たった一日で、知らなかった母の別の顔を知り過ぎてしまった。

 その上にまた新しい謎も抱えてしまった。

 しかも新しい謎は、一花には相談出来そうもなかった。

 無論、父にも言えない。

 家族でも親類でもない松岡たちにはこれ以上頼れないとも考えていた。


(ママと、今まで通り一緒に生活できるかな……)


 家の前まで帰ってきているのに、躊躇してしまう。しかしためらったところで、伊織が帰る場所はここしかなかった。


 大きく深呼吸してから、玄関を開けた。


「ただいま」

「おかえり」


 予想に反して、出迎えの声は父だった。ドキドキしながらリビングに入ると、昨日の朝とは打って変わって元気になった広瀬がソファに座って本を読んでいた。


「弁護士の先生のお話はどうだった? お前が司法関係に興味があるとは意外だったな」

「ああ、うん、サッカー部の先輩に進路相談したら紹介してくれたんだ……。ママは?」


 いるよ、と転じた広瀬の目線を追うと、いつものようにキッチンで台所仕事をしている母がいた。


「おかえりなさい」


 いつもと同じように微笑む母の存在を確認してホッとするも、何か違和感があって急に不安になる。


「ママ、大丈夫?」


 ついさっきまでとは反対に桐子を気遣うような声かけをしてしまった。『大丈夫よ』といういつもの返事を期待していたのだが、桐子の顔はぎくりと固まった。


「僕の風邪がうつっちゃったかもしれないんだ。だからママは少し休ませてあげようね」


 背後から、母の代わりに答えてくる父に、伊織は不安を隠さず振り返る。


「ママ、具合悪いの?」

「……大丈夫よ、ごめんね、お昼ご飯作るわ。何食べたい?」

「でも……」


 伊織は戸惑いが膨らみ過ぎて混乱する。昨日から頭の中には母への不信と憤りと苛立ちが渦巻いていた。ただ、それをすぐにぶつけることなんて出来ない、だから松岡に甘えて冷却期間を作ってもらった。

 だが今の桐子には、それが無かったとしても自分の感情をぶつける気が起こらない。


「なんか、顔色悪いよ……。親父、出前取る? じゃなかったら俺何か買ってこようか?」


 慌てる伊織に、広瀬は微かに緊張を感じるが、それは顔には出さなかった。オロオロする伊織の肩を抱いて桐子に向き直る。


「伊織もこう言ってるし、無理しなくていいよ。そうだ、寿司ならさっぱりしてるから食べやすいんじゃないか?」


 伊織はドキドキしながら母を見る。普段の桐子なら


『大丈夫よ、大したことないから』


 と笑って否定するはずだ。だがまたもや伊織の予想を裏切った。

 桐子は二人から目をそらすと、小さく頷く。


「うん、そうね、そうしてくれると助かるわ……」


 その言葉に伊織の不安は膨らむばかりだ。明らかに桐子の様子が普段と違う。当然父もそれを感じ取っているだろうと思いすぐ真横にる広瀬を見つめるが、こっちは昨日の体調不良は何だったんだ、と聞きたくなるくらい明るい顔をしていた。


「じゃあ、出前の電話を……」


 エプロンを外しながら電話台へ向かおうとする桐子の足元がおぼつかない気がして、伊織は思わず駆け寄る。

 しかし伊織が手を伸ばして肩に触れた時、桐子がびくっと震えて身を引いた。


「……ママ?」


 伊織の呼びかけで、ハッとしたように目を瞬かせた桐子は、途端に気が緩んだように表情を歪ませた。


「ごめんね、伊織。ママ、ちょっと横になってくるわ」

「う、うん……」


 本当は寝室まで付き添ったほうがいいのでは、と思わせるほど様子が悪いのに、やはり広瀬は笑顔のままだった。心なしか満足気にも見えた。


「届いたら声かけるよ」


 頷いただけで寝室へ向かう母の後ろ姿から、伊織は目が離せなかった。

 そのまま母が消えてしまいそうに見えた。

 今まで感じていた『どこかへいなくなってしまいそう』という不安が、母を知ったことで薄まるどころか、より一層強くなってしまったようで途方に暮れた。


「親父……、ママ、大丈夫かな」

「大丈夫だよ」


 広瀬の笑顔は変わらなかった。


「ママのことは僕に任せてくれれば大丈夫だよ。そうだ、勝手に決めちゃったけど、伊織も寿司でいいか? 天ぷらとか唐揚げも頼めるみたいだぞ」


 母とは裏腹に少しも変わらず普段通りの父にも、伊織は違和感が強まるのを抑えることが出来なかった。

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