第251話
石橋の話を二人から聞いて、松岡は厳しい表情で何度も頷いた。
「退職日前に、出勤できなくなったって人事に連絡があったのは聞いていた。ただ、そんなことがあったのは知らなかったな……。でもまあ、お前さんが無事生まれて、そこは安心しただろうな」
「はい……」
「どうした。思ってることがあるなら何でも言え。お袋のこんな過去を聞いたら、お前も恨み節言いづらいだろう。俺たちになら何しても何言っても受け止めるぞ」
松岡の言葉は贖罪も込められているのだろうが、今の伊織には心強かった。
「さっきの田咲さんが言ったことも考えてたんですけど……、ママには、何か大事なものってあるのかな、って」
「大事なもの?」
「大事にされた経験がないのに、誰かを、何かを大事にできるのかな。俺は、ずっとママや親父に大事にされてきたと思ってたけど、でも、二人は、特にママはどんな気持ちで俺を育てたのかな」
朝起きれば母が先に起きて、朝食を作ってくれている。自分は綺麗に洗濯されてアイロンがかかったシャツを着て学校へ行く。食べたいと言えば友達が羨ましがるような弁当を作ってくれる。家に帰ればおやつを準備して、食事も作ってくれる。父が帰るまで遅くまで起きて待っている。いつも家の中は清潔で片付いていて、それなのに桐子からは生活臭がしない。初めて桐子を見る同級生は、一様にその美しさに驚く。
「いつだってママは、家族の予定を優先してくれる。仕事が忙しくても、俺たちの……」
そこまで言って、伊織は引っ掛かりを感じた。話している途中で黙ってしまった伊織に、松岡たちは首を傾げる。
「どうした?」
「……やっとわかった、ママの違和感。ママは、いつでも俺と親父を優先してくれるけど、それよりも優先してるものがあったんだ」
「君たちよりも?」
「……文哉伯父さん」
◇◆◇
夕方になり、そろそろ一花も帰ってくるだろうかと時計を見た時、手元のスマホが鳴動した。発信者を見ると各務だった。
文哉はすぐに電話に出た。
『休日に申し訳ありません。今、少しよろしいでしょうか』
「大丈夫です、ご用件は?」
『先日ご提示いただいた売買契約を確認いたしました。是非、お譲りいただいたいと思いまして」
「ありがとうございます。でも各務さんこそ休日だったのでは?」
『私は土日も関係なく仕事しておりますから……。カレンダーを気にして、万が一松岡先生が翻意されたら大変ですからね』
笑って茶化すように付け加える鏡に、文哉も愛想笑いで応じた。
「何はともあれ、契約成立はありがたい限りです。では正式に契約の取り交わしを行いましょう」
『よろしくお願いいたします。ああ、お屋敷は、契約すればすぐに取り壊して大丈夫でしょうか?』
「はい。あ……そうですね、ちょっとそこは確認します」
文哉はとっさに、桐子の知人が臨時で使っていることを思い出した。
『お手数ですが、よろしくお願いいたします。では、また』
電話が終わると、文哉は、ふう、と大きく息をついた。
三鷹の屋敷は、ずっと文哉にとってしこりのような存在だった。すぐにでも取り除きたいのに出来ない、気になって仕方がない異物だった。
それが、あっさりと片付く手筈が整った。本当はもっと喜んでいいはずだが、何故か空しさばかりが文哉の脳裏をかすめていた。
しかし、今更どうすることも出来ないしするつもりもない。問題は各務が、川又裕之が何を考えているのか、に気を配らなければいけない。
(桐子に、確認しないといけないな)
頭を切り替えて、桐子の携帯に電話をかけた。
が、何回コール音がしても応答はなかった。
普段の桐子なら、文哉からの着信に気づいた時点で折り返してくるのだが、この日は夜中になっても桐子からの連絡はなかった。
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