第250話
「いっっっ、てぇ……」
伊織は自分の右手を抱えてしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫?」
「痛えのは俺たちだぞ。殴ったほうが痛がってどうする」
「だって……なんでそんなに腹固いんですか……」
伊織は涙目で二人を見上げる。戸惑う剣と、吹き出す松岡に伊織は口をへの字にする。
「笑わなくたって……」
「そうだな、悪い悪い。手、見せてみろ。お前を怪我させて帰すわけにいかんからな」
「俺、今日は帰りませんよ」
「分かってるよ、明日以降の話だ」
松岡が伊織の右手をそっと開くと、赤くなってはいるが出血や腫れは見られない。冷蔵庫から冷却剤を出してきて、痛がる部分に貼った。
「これで少し様子見るか。明日の朝にまだ痛かったら医者に連れてくからな」
「日曜日ですよ」
「開いてる病院知ってるから心配するな」
伊織の手当てを終えた松岡は、さて、と改まる。
「一発でいいのか? お前、サッカー部なんだろ。蹴りでもいいぞ」
「なんで知ってるんですか、俺がサッカー部、って……」
「お前のお袋が話してたんだよ」
ママが……、とつぶやいて、伊織の動作が止まる。
「ママは、二人に、俺や親父の話するんですか……」
「しょっちゅうじゃないがな。こっちも興ざめだし、話の流れで出てくることはあったな」
「……田咲さんも?」
「お子さんがいて、高校生だってことは聞いていたよ。あと、ご主人の海外赴任のこととかね」
「俺たちのこと、忘れてるわけじゃないんだ……」
「そりゃ、当たり前だろう」
「でも、じゃあどうして、ママは愛人なんて作ったの? 俺や親父たちがいるのに? 寂しいなら、俺たちに言えばいいのに、どうしてそうしてくれなかったんだろう」
「伊織くん……」
松岡は冷却剤のゴミを片付けるついでに、飲み物を追加する。コーヒーメーカーをセットしながら、少し離れたキッチンから話し出した。
「別に俺たちと一緒にいるのは、寂しさを埋めたいとかそんなんじゃないと思うぞ」
伊織は驚いて松岡を見る。同時に剣も隣で頷いた。
「さっきの石橋さんの話を思い出すと、そもそも桐子さんは誰かと一緒にいたいって思わない人なんじゃないかな、って気がする。寂しさを感じない、というより、意識していないような……」
「感じない……?」
伊織に問い返された剣は、首を傾げながらも頷いた。
「自分にも他人にもあまり興味がないのかもしれない。多分……自分は価値がない人間だと思っているとか、自分は人から好かれるはずがない、とか、自分で自分が嫌い、とか」
「自分が嫌い……」
伊織も石橋から聞いた話を思い出す。両親に愛されず、暴行を受け、妊娠中にも事故に遭った。親しい友人もほとんどおらず中学は不登校のまま卒業。今の松岡の話からも、社会人になってからも人間関係には恵まれていなかったようだった。
「なんか、想像できない……。ママはいつも笑ってるし、家では俺や親父にすごく優しいし。何考えてるか分からないところあるけど、自分のことが嫌い、だなんて」
「俺も、カウンセラーじゃないからね。でもそういうキャラクターが桐子さんの作品には多いってことに気がついたんだ。多分あれは……桐子さんなりのSOSだったのかな」
剣らしい桐子評に、松岡も伊織も驚く。そして、SOS、という言葉に引っかかった。
「そういえば、あいつから何かを相談されたり、頼まれたことはほとんどないな」
「俺もです。まあ俺なんかに出来ることはないからだろうけど。怒られたことは……何度かあったけど」
「怒られた? ママに?」
「……これからテレビで顔が売れて人気が出るだろうから、もう会わないって言われたんだ。それで、そんなこと言われるくらいなら出演取り消す、って言ったら怒られた」
松岡は剣の話に呆れて言葉も出ない。あの食事会の裏にそんなことがあったのか、と思うと、自分が呼び出した時の剣の屈折した表情にも納得がいった。
「なんでママは怒ったのかな。やっぱり……田咲さんと一緒にいたいから、とか?」
「田咲には悪いが、そうじゃないだろうな。すでに契約を交わした後で取りやめ、なんて言い出したら、その後の活動に差し支えることを心配したんだろう。場合によっては違約金とかな」
剣はつまらなそうに頷く。そうだ、桐子は自分と一緒に仕事がしたいわけではない、ただ剣の負担と将来を心配したから引き留めただけなのだ、と再確認するのは辛かった。
「じゃあ、ママは平気だったのかな。親父がいるっていっても恋人の田咲さんと会えなくなっても」
「……俺には答えづらい質問だね。でも、きっと平気なんだと思う。思い入れが無いんだよ、俺にも、俺との関係にも」
「恐らくな。俺が相手でも同じ反応するだろうな。で……石橋さんの話、って、なんだったんだ?」
松岡に言われて、剣も伊織もハッとする。あの場に松岡はいなかったことを思い出した。
そして石橋から聞いた桐子の幼少期と妊娠中の事故について、代わる代わる話して聞かせた。
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