第249話
一花を彼女の自宅の最寄り駅で下ろすと、男三人で松岡の家へ向かった。到着したのはタワーマンションの上位階だった。
「すっげー、超高い」
窓から外を見下ろして伊織がはしゃぐ。勝手に窓のロックを外してバルコニーに出て、そこでも大騒ぎしていた。
「こら、近所迷惑だから少しは気を遣え」
「だってうち一軒家だからこんなんないしさー。松岡さん、ここに一人で住んでるの?」
「悪かったな」
「別に悪くないよ。てか、今度一花も連れてきていい? あいつも絶対羨ましがると思う」
「お前ら、
呆れながらも人数分の飲み物を用意し始める松岡をよそに、剣は広い室内を無言で見渡していた。
「……なんだ? お前まで遊びに来たいとか思ってんのか?」
「そんなわけないでしょう……。いや、桐子さんも、ここに来たことあるのかな、って思って」
つい考えていたことがそのまま口に出る。さすがにぎょっとした松岡を抑えるように、伊織が室内へ戻ってきた。
「それだ、忘れてた。……松岡さん、ママとの関係、教えてください」
ぐい、と顔を近づけながら迫ってくる伊織に松岡は抵抗できない。松岡は力なく頷いて、二人をソファへ誘った。
「俺とあいつ……千堂は、昔の勤務先での同僚だ。俺が独立する前に所属していた弁護士事務所で、千堂も働いてたんだ。まあすぐに妊娠して寿退職したがな」
「ママ、会社員してたことあるんだ」
「半年くらいだったがな、優秀だったぞ。優秀過ぎて妬まれたくらいだ」
「……いじめ、とかですか」
剣の予想に、松岡は苦々しい顔で頷いた。
「名家のお嬢様で、有名大卒の美人で、仕事も出来て真面目なら、そりゃ上役には評価されるだろう。しかしそれが気に入らない連中もいてな。まあそんな手合いはどこにでもいるんだがな。法科出身でもないのに入社出来たことを、コネを使っただのなんだの噂されて、ことあるごとに面倒な雑用押し付けられて、でも嫌な顔一つしないで他の奴の何倍も早く高い精度で終わらせるんだよ。本人はどう考えていたのか知らんが痛快だったな」
「今は、その……愛人、なんですよね」
じれったそうに本題に切り込む伊織に、松岡は頷いた。
「そうだ。かれこれ五年くらいかな。期間にすると長く感じるが、俺が誘っても三回に二回は逃げるんだ。だから回数としてはそんなに多くない」
「やっぱり……」
思わずつぶやく剣に、伊織が振り返る。
「やっぱり?」
「俺も……結構逃げられる。そりゃ、ご主人いるんだから当たり前なんだけど、じゃあなんで会ってくれる日もあるのかな、って悩んだことある。俺は毎日だって会いたいのに、それに気づいてないはずないのに」
考え込む剣をそのままにして、伊織は松岡に問い返した。
「どっちから好きになったんですか?」
「好きに、って、そんな若いやつらの恋愛とは違うからな。俺の親戚の結婚式に行ったら、お前の両親が仲人だったんだよ。そこで久しぶりに会ったんだ」
「だから、親父のことも知ってるの?」
「そうだ。その時は人に知られて困るような関係じゃなかったしな。仕事上、大企業勤務の人間とは繋がりを持っておくに越したことはない。名刺交換して、その後何度か飲みに行ったりもした」
「……親父と仲良しじゃん。なんで……それでママと不倫しようなんて思えたわけ? 俺、意味わからなすぎなんだけど」
伊織の表情が、驚きから侮蔑に変わる。一度は自分たちの味方になってくれるかも、と頼もしく思った松岡が、急に中身のない抜け殻に見えてきた。
松岡はソファから立ち上がり、先刻剣がしたように頭を下げた。
「お前に許してもらおうとか、わかってもらえるなんて思ってない。それは広瀬に対してもだ。本当に申し訳ないことをしていると思っている。すまない」
伊織は大人の男の土下座を立て続けに目にしたことで、更に母のしたことへの嫌悪感が増してきた。
許すも許さないも、自分はただ知りたいだけでここまで来た。腹が立っているのは松岡や剣に対してではない、五年もの間母の素行に気づかなかった自分と父、そして騙し続けてきた母こそが、この問題の当事者だと思った。
「……くっそ、なんか急に腹が立ってきた、どうしたらいいんだよ、これ」
伊織は頭を抱える。松岡と剣は互いに見合わせ、そして立ち上がった。
「気が済むまで殴れ。何発でもいいぞ」
伊織が顔を上げれば、自分の近くに大人が二人、並んで立っていた。
先刻同じことを剣に言われた時は、体中から力が抜けたような気がしてとても人を殴ったり罵倒したりする気にはなれなかった。
しかし、二度目ということもあって、伊織は頷いて立ち上がる。
そしてそれぞれの腹に一発ずつ、伊織なりの渾身の拳を叩きこんだ。
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