第248話

『桐子、桐子……』


 ぼんやりする意識の中で、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 聞きなれた、懐かしい声だった。

 なぜそんなに自分の名を繰り返し呼ぶのか分からなかったが、不思議と心地よくて、返事も出来ないまま眠りに戻っていった。


◇◆◇


 目を開けると、桐子は自分が寝室のベッドに横たわっていることに気づいた。

 すぐには思考が追い付かない。額に手を当てて記憶を辿ると、リビングでの出来事を思い出した。同時に体のあちこちが痛む。そっと掛布団をめくると、裸のままだった。

 痛みをかばいながらゆっくり身を起こした時、ドアが空いて部屋着に着替えた広瀬が入ってきた。桐子はとっさに身構えるが、広瀬はいつも通り優しく微笑んだ。


「よかった、目が覚めたんだね。お風呂、わいてるよ。入ってきたら?」


 そしてベッドに近寄り、桐子の額に手を当てる。


「少し熱いね。僕の風邪、うつしちゃったかな。やっぱりお風呂でちゃんと温まっておいで」


 桐子は広瀬の笑顔の意味が分からず、しかし少しでも早くひとりになりたくて同意した。


「すぐ、済ませるわ。夕食の準備もしないといけないし……」

「急がなくていいよ。夜は、君が良ければ外に食べに行こうよ。作るの、大変だろ?」

「……でも、そろそろ伊織が帰ってくるだろうし」

「ああ、伊織なら、今日は外泊するみたいだよ」

「……外泊?」

「さっき電話があってね。高校の先輩に紹介された弁護士の先生に、どんな仕事か話を聞きに行くらしい。ついでだからそのお宅に泊めてもらう、って」

「そんな、初めてお会いする方に?」

「まあ、先輩は前からの知り合いらしいから、そのご縁じゃないかな。でも……ちょうど良かったね」


 布団から見える桐子の裸の肩を見ながら、広瀬は片頬を歪ませて笑う。


「君のこんな姿、さすがに伊織には見せられないよ」


 そう言いながら、布団をめくろうとするのを桐子は必死で押しのけた。


「着替えて、下に行くわ。食事はその後で相談しましょう」


 慌てる桐子を見て面白そうに笑うと、広瀬は頷いて寝室から出て行った。


◇◆◇


「弁護士って……なんかママにはバレバレな気がする」

「だからお前の先輩経由ってフェイク入れたろ」

「でも俺、弁護士になるつもりなんてないですよ?」

「そんなの、後から志望変更したって言えばいいだけじゃないか。お前、結構頭固いな」


 文句を言い合う伊織と松岡の後ろを、一花と剣がついていく。千堂邸を辞して、松岡の車で帰るために駐車場まで歩いているところだった。


「あんなに広いお屋敷なのに、敷地内に駐車場ないのかな」

「あると思うよ。でも来客用は大きな門を開閉しなきゃいけない造りみたいで」

「大げさなんだよ。あれはちょっとな。だったら時間貸に停めたほうが気が楽だ」


 ふうん、と、わかったような分かってないような返事をする一花に、伊織が振り返る。


「悪いけど、お前ももしママに何か聞かれたら口裏合わせてくれ」

「今日私たちが一緒に出掛けてるって知らないんだから、聞いてこないと思うけどね。もし何かあればそうする。これ、貸し一つね」

「貸し?!」


 どうしよっかなー、と楽しそうに笑う一花を離れたところで見守りながら、剣は小さくため息をついた。


「どうした。そんなにいやか、この続きの話をするのが」

「楽しいわけないじゃないですか。でも……最低限の義務ですから。それに、ご主人と話す前に彼に話せたのは良かったかもしれない。今更だけど、あんないい人を騙してたんだな、って後悔し始めてます」

「この程度で後悔するくらいなら、とっととあいつと別れてりゃ良かっただろ」

「違いますよ。俺が言ったのは、ロンドンで顔見知りになってしまったことですよ。桐子さんのことは……後悔なんかしません。多分、一生」


 決意を込め、真っすぐ前を見て断言する剣の横顔に、松岡は一瞬見惚れた。しかし次の瞬間、大げさにため息をつく。


「いい顔して言うことか。どうせならこの後二、三発殴られろ」


 呆れたような松岡の声音に、剣も苦笑して頷いた。


◇◆◇


 一行が話しながら通り過ぎるのを、各務はじっと物陰から見つめていた。

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