第245話
「愛子さんって……どうして……?」
「手紙をもらったんだ。もう、大分前のことだけどね」
広瀬は再び桐子から視線を外す。そして忽然と書斎から消えた封筒のことを考えていた。
「とても悩んでいるようだった。だけど、誰にも言えなかったみたいだ」
「悩み……」
「お義兄さんとのことだよ」
桐子は驚いて目を上げる。義姉が文哉の何を悩んでいたのか見当がつかなかった。そしてそれを広瀬に相談していた、ということもまた、寝耳に水だった。
「誤解しないでほしい。僕とお義姉さんは何もないよ」
「そんなこと……言わなくたって分かってるわ」
言ってから、桐子は自分への苛立ちでため息をつく。どうしてさっきから棘のある物言いしかできないのだろうか、と。
「お義姉さんからの手紙、って、何が書いてあったの?」
いつ頃のことだろうか、と思案を巡らせながら聞いてみる。愛子が亡くなる前だろうか。兄夫婦の結婚は自分たちより後だった。だから二人が顔見知りになったのは、自分を通してのはずだ。それが、自分も知らないところで義姉が夫に手紙を渡していた、という事実が、大きく桐子を揺さぶっていた。
「いい人だったね、愛子さん。明るくて、快活で、面倒見が良くて。生まれたばかりの伊織のことも可愛がってくれた時期があったね」
「そうね」
桐子は夫の言葉に素直に頷く。広瀬の言う通り、愛子は優しく明るく、義妹の自分のことも、その家族である広瀬や伊織のことも大切にしてくれた。
一花の明るさや無邪気さは、愛子譲りだろう。自分たちと同じ千堂の血が一花に悪影響を及ぼさないでいるのは、愛子のおかげだとも思っていた。
「愛子さんが亡くなったとき、さ」
広瀬は桐子の質問には答えない。そしていきなり彼女の死について語りだした。
「君も驚いてたけど、もちろん僕もだ。でもね、ああ、そうしたんだな、って、納得もしたんだよ」
「納得、って……」
「でも僕は、同じことはしたくなかった。してはいけないと思った。だって愛子さんが亡くなって、君も、お義兄さんも、一花ちゃんも、みんなとても悲しんでいたからね。あんな思いを……君や伊織にさせてはいけないと思った。もしかしたら……いつか僕が同じことを考えた時に思いとどまらせようとしたのかな。いや、いくら何でも考えすぎかな」
「どういうこと? 愛子義姉さんは、だって」
「事故じゃない。愛子さんは、自死したんだ」
小さくうめき声をあげて絶句する桐子を見て、ああ、やはり知らなかったんだ、と、広瀬は納得した。
「ごめん、ショックだったね」
「……どうして、あなたが知ってるの? それって、兄さんや、一花ちゃんは……」
「僕は知っているというより、亡くなったと聞いて分かったんだ、理由がね。お義兄さんはもちろん知ってるだろう。一花ちゃんは……知らないんじゃないかな」
「分かった……?」
うん、と頷いて、広瀬は少し辛そうに身動ぎした。桐子はハッとして立ち上がる。
「あなた、また体調悪くなってきたんじゃない? だったら、横になったほうが……」
「いいんだ」
肩にかかる桐子の手を握って、広瀬は妻を押しとどめる。
「体調はそんなに悪くないよ。今はそんなことより、君と話したい。……ずっと一人で考えてきた。もう辛いんだ。君を愛してる。伊織も大事だ。家族は、君たち二人は僕の全てだよ。でももう……無理なんだ」
桐子の手を握る広瀬の手が微かに震えだす。見れば、広瀬の表情も震えていた。思わずもう片方の手で広瀬の肩を抱きしめる。
「愛子さんは苦しんでた、ずっと……。自分が、お義兄さんに愛されていないことにね」
広瀬の背をさする桐子の手が止まる。聞き間違いかと思った。しかし、間違えることも許されないような告白だった。
「不思議だよね。だって僕たちの目には、とても仲よさそうな一家だったものね。でも愛子さんは、自分は愛されていない、愛される資格もない、どうしたら許されるのか、でも、自分も憎くてたまらない、それが苦しい、って……。僕は、愛子さんの言葉の意味が分からなかった。義妹の夫なんて遠い関係の自分に、何を伝えたいんだろう、って。でも彼女は分かってたんだ。僕と自分が同類だってことを、ね」
広瀬はつかんでいた桐子の手をそっと放したが、桐子は広瀬の手が離れたことに気が付かなかった。それよりも、頬に伸ばされた広瀬の手の冷たさに、恐怖のあまり動けなくなっていた。
「僕も愛子さんも、結局蚊帳の外だったんだ。千堂家の、君たち兄妹の間には、どうしたって入れなかったんだ」
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