第244話
『何かあったのは僕じゃない。……君だろう?』
広瀬の言っていることの意味が分からず、桐子は返事が出来ずに黙ってしまった。それを肯定と取った広瀬は、小さく頭を振りながら俯いてしまう。
「ね、今更聞くのもおかしいけど、君はどうして僕と結婚したの?」
続く問いに、桐子は息を飲む。意味が分からないだけでなく、まるでこちらの意思を疑っているように感じたからだった。
「どうして、って、そんなの」
「妊娠したから?」
「それはタイミングが重なっただけだったじゃない。私は、大学であなたと知り合って付き合うようになってから、いつかそうなるといいなって思ってた。だから妊娠したのも自然の流れだったって思ってる。あなただって喜んでくれたじゃない」
「もちろんだ。嬉しかったよ、これで君と家族になれるって思ったからね」
「私だってそれは」
「でも、君は違ったんじゃないのか?」
「……どういうこと」
広瀬は目を丸くしたままの桐子の横に、もう一人の人物の影を見出す。
ずっと、その影を恐れていた。恐れてはいけない、それは自分に対して誠実に接してくれるその人への裏切りだ、だから恐れる自分が、妻を信じきれない自分の弱さが悪いのだ、と言い聞かせ続けてきた。
あの手紙を受け取ってから、ずっと。
しかし今の広瀬は、そうして自分を叱咤し続けることに疲れ果てていた。体調を崩したことも、昨日の件も、広瀬の限界値を下げている理由かもしれないが、原因ではなかった。
「話を変えようか。……君はこのひと月、ずっとお義兄さんの病院に通い詰めていたね」
「だって、兄さんには」
「そうだね。奥さんがいない。一花ちゃんには学校がある。僕たちは幸い近所に住んでいるんだから、妹の君が出来ることをするのは当然だ」
「……そう、よ」
桐子は気持ちとは裏腹に小さな声で同意した。どうして強く言い返せないのか、自分でも分からなかった。
そして、こんな問答をやめようとしない広瀬に対して、疑念と苛立ちを感じてもいた。
「二人で、病室で、何をしていたの?」
「……は?」
「入院したといっても体が全く動かないわけじゃなかったし、手足以外は元気そうだったね。もちろん意識もはっきりしていた。君は何をしに、毎日通っていたの?」
苦悩しているような、呆れているような広瀬の歪んだ表情に、桐子は彼が言いたいことを読み取って愕然とした。
桐子は広瀬の懸念に否定することすら腹立たしく思いながら、しかし反対方向へ自分を引っ張る力に押しとどめられる。
否定しなければいけないと、しかしどう言えばちゃんと夫に伝わるのか、言葉が見つからない。
ただ、自分自身はいいとして、
「兄さんは、そんな人じゃない。それは絶対に。あなただって……分かってるでしょ」
桐子の言葉に、広瀬は目を見開いた。
(兄さんは、か……)
広瀬は、理解した、というように何度も頷いた。そして気が付けば笑っていた。
「そっか、そうだね、うん……、はは、ははは、あははははは」
桐子は、乾いた笑いを止めない広瀬を、ただじっと見ているしかなかった。
「君は正直だね。そうだ、お義兄さんはそんな人じゃない。そして君も、嘘をつくような人じゃない。だとしたら……、じゃあ、どうしてこうなったんだっ……」
最後は独り言のように呻いて、またテーブルに突っ伏してしまった。桐子からは広瀬の顔は見えない。
「こうなった、って、私が兄さんの看病を優先して、あなたの出張についていかなかったこと……?」
恐る恐る問いかけるが、広瀬は顔を伏せたまま首を振る。それ以上何も言えず、桐子も沈黙するしかなかった。
遠くから小さな子供の声が聞こえる。そうだ、今日は土曜日だった、と気づいた。久しぶりに家族で過ごせる休日だと思った朝が、遠い昔のように感じる。
「……もっと早く話し合うべきだったんだ。でも僕は、君から言い出してくれることを待っていた。いや……違うな。信じたくなかったんだな。動かせない証拠もあるのに、君よりあの人を信じるようで、君を傷つけるようで、聞けなかったんだ」
「あの人……?」
ゆっくり上げられた広瀬の顔は、臥せっていたため髭も剃っていないからか、普段の何倍も疲れ果てて見えた。
「愛子さん。お義姉さんだよ」
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