第241話
「……俺を、ですか」
石橋は小さく頷いた。
「広瀬様との婚約が決まって、ご両家の顔合わせも済み、退職と新居の準備で毎日忙しくお過ごしだったと伺っております。桐子様のお人柄から、いずれも手を抜くことなく頑張っていらっしゃったのでしょう。気を張っているときは心身の不調に気づきづらいものです。お仕事帰りに電車に乗るために地下鉄の階段を降りようとしたとき、転落なさったのです」
伊織が息を飲む気配が、剣にも伝わった。無論、剣も驚いていた。
「……幸い、命に別状はありませんでした。ただ、これは妻から聞いた話ですが、転落のショックからか、記憶が混濁していた期間があったそうです」
「……記憶が?」
石橋は目を閉じた。
「幼児がえり、と申しますか、幼かった頃、まだ先々代ご夫妻がこのお屋敷にお住まいで、夏休みにご兄妹で遊びにいらしていた頃に、戻ってしまわれていたそうです」
妊娠中の女性、ということで、石橋は当時あえて桐子の居室には近づかないようにしていた。しかし思いのほか二人の逗留が長かったため、心配になって妻に訊ねたところ、桐子の異変を知らされた。
「身重の体での事故ですから、ご自身の安否もさることながら桐子様はお腹の赤ちゃんのことが心配で、万が一を想定してショックを受けてしまわれたのかもしれません。それほど、ご婚約、ご懐妊中の桐子様はお幸せそうでした」
石橋の言葉は、伊織と剣に全く逆の感情をもたらした。
伊織は自分の存在が母の幸せの源だったこと、万が一を考えてしまって精神がバランスを崩すほど大事に思ってくれていたことを知り、つかの間桐子の罪を忘れた。
だが剣は、自分が知らない桐子の顔を見せつけられて孤独感が増すばかりだった。剣の知る桐子はいつも感情を表に出さない大人の女性そのもので、激高することも我儘を言うことも無い代わり、幸せに溢れた顔も見たことが無かった。
「ですから、こうして無事に伊織様が生まれてご立派に成長なさったことは、桐子様にとってはこの上ないお幸せなのです。そのことは、どうぞ分かって差し上げていただけますでしょうか」
石橋の再度の叩頭に、伊織は素直に頷けず、またそんな自分がもどかしかった。
ふと、今の話にある人物が登場してこないことに疑問を抱いた。
「……その時、親父は何か言ってたんですか?」
「広瀬様、ですか?」
「結婚前だったとしても、お腹の子、って俺だけど、父親なわけですよね。やっぱ心配だったのかな」
「……あの時は、桐子様の状態を慮られて、広瀬様にはこちらへのご訪問を遠慮いただいておりました。ですから私共は直接ご様子を拝見しておりませんが、無論、とても心配なさっていたと思います」
「え? 出禁ってことですか? 婚約者なのに?」
「先ほども申しましたように、桐子様の心はお小さい頃に戻ってしまわれていました。言葉で聞くだけではさしたる変化でもないと思われるかもしれませんが、よく知っている人物が幼児がえりしている姿を目の当たりにするのは、なかなかにショックが大きいものです。文哉様は二度目なので落ち着いていらっしゃったようですが」
「二度目……?」
首を傾げる伊織に、石橋ははっとする。しかしここまで話してしまったのだから、隠すことでもないと思った。
「先ほどお話ししました、中学生の時の暴行事件の際にも、記憶の混濁が起きた時期があったそうです。ですので文哉様が付きっきりでお世話していらっしゃいました」
「へえ……」
伊織は伯父の献身に感心する。そこまで桐子に尽くして、桐子からも頼りにされているのがありありと分かるのに、文哉には驕った様子は少しもない。そして先日までの文哉の入院に際して、夫との約束を反故にしてまで実兄の世話をした桐子の気持ちが分かった気がした。
「ほんとに仲いいんだな、ママと伯父さん。あ、伯父さん、先月事故で怪我して入院したんですよ。その時ママ、毎日お見舞い行ってました。一花だけじゃ世話しきれないだろうから、って。本当は親父の海外出張にくっついてく予定だったんですけどね。ほかに親戚もいないから、仕方なかったんだろうけど」
伊織の話を聞いた石橋が、微かに体をこわばらせたのを、剣は不思議に思いながらも忘れることが出来なかった。
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