第240話

 先に食堂に案内された一花と松岡は、美味しそうな匂いを漂わせる食事の席で、あとの二人が来るのを待っていた。


「伊織くんとタッキー、遅いねー」

「まあ、話し込んでるんだろ」


 伊織たちが何について話しているかの見当がついている松岡は、一花とは違う意味で中々来ないことを心配していた。

 二人だけで話したほうが伊織が納得するだろうと思って残してきたが、それが負と出ていたとしたら。


 部屋の位置は分かっている。万が一もめてるのだとしたら止めに行こうか、とも思うが、そのためには一花に事情を説明する必要がある。ここで一花にまで汚い大人の現実を見せたくはなかった。


 椅子に座って子どものように両足をパタパタさせていた一花が、不意に松岡を見た。


「さっき、伊織くんと話してたの、おばちゃんのこと?」


 まさに今考えていたことの図星を指されて松岡はぎょっとする。思わず一花を振り返ると、口調の軽さとは裏腹に目には力がこもっていた。


「伊織くん、ずっとおばちゃんのこと知りたがってた。今まで二人で調べてきて、パパのことは少しずつ分かってきたけど、おばちゃんのことは分からないままなんだよね……。昼間団長さんに大学の時のこと聞いてきたけど、多分伊織くんが知りたかったことじゃなかったと思う」


 しょんぼりと下を向いてしまった一花の頭を、松岡にしては優しく撫でた。


「あいつが知りたがっていたことを、多分今聞けているはずだ。ただそのせいで、きっとしばらく辛い思いをする。そんなあいつを支えられるのは多分お前だけだ。頑張れよ」

「私だけ?」

「付き合ってんだろ? 香坂の坊主と」


 話していないのにさらりと言い当てられて、一花の頭と顔は一気に沸騰した。


◇◆◇


「大きな事件って、そんなことママは……」

「本来なら私などが勝手に話していいものではありません。しかし伊織様が桐子様にお尋ねしても、教えてはくださらないでしょう。おそらく文哉様も……。ただ、それを知らないままで、伊織様が大事な決断をされるのを黙って見過ごすことも出来ません。万が一お咎めがあれば、この老体はいかようにでも処していただいて構いませんので」

「ちょ、ちょっと、そんな……」


 どんどん物騒になる石橋の物言いに伊織は狼狽する。そこまで大ごとなら、自分一人で聞くのが怖い。かといって、聞かずに済ませれば確実に後悔しそうだった。

 

 伊織は隣で所在無げにしている剣を見る。


「ここまで来たら、田咲さんも知りたいですよね。……一緒に聞いててもらっていいですか?」

「それは……、でも」


 剣は石橋を見る。石橋は薄々気づいていたが、主人の若い愛人だったと知ったことで、剣に対する態度を変えた。


「田咲様も、桐子様のご縁者であれば千堂家も同然でございます。よろしければご同席いただけますか」


 二人から迫られて、剣は頷く。

 桐子の、彼女が息子にすら知られたくないと思っているらしい過去を聞くことは、自分の桐子への愛の試金石にも思えた。


「あれは桐子様が中学生の時でした。下校途中で、見知らぬ男に暴行されたのです。帰宅しない桐子様を探して見つけたのは文哉様。文哉様が警察を呼んだのですが、志津子様……お二人の母上は、警察を追い返しました。全ては桐子様に非がある、だから捜査には及ばぬ、と」


 二人は想像を超えた話に息を飲む。

 石橋は友人でもある弁護士の水島から連絡を受け、千堂本宅へ急行した日を思い出していた。


 パトカーどころか救急車を呼ぶことすら許さない政継・志津子夫妻をどうにかなだめて、水島の車に桐子たちを乗せて病院へ向かった。

 泥だらけで震えながら文哉にしがみつくことしかできない桐子は、そのまま入院することになる。

 しかしその入院も、体を慮ってというよりは、世間体から家名を守るための監禁だった。


「結局桐子様はそのまま中学へ戻ることが出来ないまま卒業の日を迎えられました」


 ふと、伊織は植田の話を思い出した。


「もしかして、俺たちのお祖父さん達が無くなったのって、その頃ですか?」

「はい。桐子様が入院中に、ご夫妻は別荘でご友人のお誕生日をお祝いするご予定でした。その移動中の事故でした」


 剣はその情景をまるで見てきたかのように脳裏に思い描き、怒りのあまり手が震えた。

 幼い娘が暴行され入院し不登校にまでなっているのに、自分たちは友人達との遊興に勤しんでいた無神経さが信じられなかった。


「だからか……。植田さんに、ママが自分の両親の葬儀には出られなかった、って聞いて、なんでだろって思ったんだ。そんなことがあったんだ……」

「もう一つは、なんですか」


 剣が憤りを押し殺しながら石橋に話を促した。

 石橋は剣の言葉を受け、気づかわし気に伊織を見た。


「もう一つは、桐子様が伊織様をご懐妊されていた時のことです」

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