第239話

 伊織がひっくり返って天井を見つめ続けていると、からり、と小さな音がして石橋が入ってきた。


「失礼いたします。お食事の準備が出来ましたので、食堂へどうぞ」


 驚いた二人が時計を見ると、もう正午を過ぎて大分経っていた。普段は正午前には声をかけてくる石橋が今の時間になったのは、おそらく松岡一行が訪ねてきたことで様子を伺っていたのだろう。


「あ、じゃ、俺たち帰ります」


 慌てて起き上がる伊織を、石橋が止める。


「勝手ながら皆様の分もご用意いたしました。松岡様と一花様はご案内済みです」


 驚いた伊織は思わず剣を見る。困ったように笑って、首を傾けながら頷き返した。


「石橋さんの奥さんの料理、美味しいよ。ご馳走になれば?」


 そう言われた時、返答に困る伊織より先に彼の腹がぐうと音を立てた。伊織は恥ずかしさで再び顔を赤らめ、剣はその背を押した。


「俺も減ってきたよ。行こうか」


 並んで部屋を出ようとしたとき、石橋が遠慮がちに伊織に声をかけてきた。


「伊織様、あの……、差し出がましいことは重々承知しておりますが、お母さまを、桐子様のお心も汲んでいただけますよう、どうかお願いいたします」


 そして深々と頭を下げる石橋に、伊織だけでなく剣も驚いた。


「ママの心、って、でも……」

「無論、お子様の伊織様が強く傷ついて失望していらっしゃることも承知の上で、分不相応なお願いをしていることもわかっております。人の倫に悖る行為を続けていた桐子様は、ご家族から見れば裏切り者でしょう。しかし、あのお方が生まれた時から知っている私としましては、その……」


 言葉は歯切れが悪いが、しぶとく食い下がるような雰囲気にただならぬものを感じて、伊織はまた部屋へ戻って戸を閉める。


「俺、実はまだ混乱してるみたいで、謎が解けたことへの納得感しか無いんです。家に帰ってママの顔見たらどうなるか分からないけど……。でもやっぱり、結婚してるくせに他に恋人作るって普通じゃないですよね。俺は、俺たちは裏切られた。だから今は、ママの気持ちを汲むなんて出来そうにないです……」


 一気にそこまで喋ると、ふう、と大きく息をついた。そして止まったはずの涙がまた湧き上がってきて、慌てて横を向いた。

 そうした伊織の気配を察知した剣は、代わりに石橋に問いかけた。


「桐子さんの心を汲んでほしいって、どんなご事情があるんですか? ……俺は聞ける立場じゃないけど、彼は、伊織くんは知らなければお母さんと向き合うことは出来ないと思います」


 石橋は小柄な体をさらに小さくするように俯いて何かを考えているようだった。そして意を決したように顔を上げた。


「桐子様の幼少期は、それはお辛いものでした。ご両親から向けられるのは厳しい躾のための目と言葉ばかり。子供らしい甘えも泣き言も一切許されず、私は先代ご夫妻が桐子様に直接触れているところを見たことがありません。そればかりか笑いかけたり褒めたりするところも……。それでも桐子様は必死になって努力なさっていました。けれどご両親はその努力を認めるどころか、何かにつけて桐子様を叱責なさり、お部屋に閉じ込めてしまわれることも度々でした」


 石橋が語る桐子の幼少期は、伊織のものとは比べられないほど過酷なものに聞こえた。

 今朝、祖父母について教えてほしいと聞いた時の母の苦しそうな顔を思い出した。


(そうか、だからママは……。そして親父は、それを知ってるから俺を止めたんだ)


 気の毒に思いながらも、だが伊織は納得は出来なかった。


「ママが厳しく育てられたことは分かりました。でもだからって、その……、親父以外の人と付き合う理由にはならないんじゃないですか」


 石橋は哀しげな目を上げて、伊織に頷く。


「そうですね……、それだけなら」

「だけ、って……」

「……桐子様は、二度、大きな事故、いえ、事件に遭われているんです」


 伊織と剣は、石橋の言葉にくぎ付けになってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る