第238話
剣の告白に、伊織は面食らう。
まさか自分の母が、複数の男とつながっていると思わなかったうえに、そのうちの一人は息子である自分に臆面もなく母への愛を告げてくる。
こちらの追及を躱して嘘で誤魔化されることを想定していた分、言われたことがすぐに理解できなかった。
「……怒ってるよね。当然だ。いいよ、君が思った通りのことを言ってくれていい。殴っても蹴っても構わない。もちろん、先生には言わないから」
伊織の沈黙の理由を違う意味ととらえた剣は、歯を食いしばって目を閉じる。
自分より線が細いとはいえ、十分大人と渡り合える体だ。本気で殴られたら骨の一本は覚悟しなければと思った。
しかしいくら待っても、殴るどころか罵声の一つも飛んでこなかった。
そっと目を開けると、剣が目を閉じる前と同じ顔でまだ固まっていた。
そして目の焦点を剣に合わせると、くしゃりと顔を歪ませた。
「俺、ずっと怖かったんです。ママが、いつかふらっとどこかへ消えてしまうような気がして。別に今までも家出とかしたことないし、むしろ俺のほうがやっちゃったこともあるくらいなんだけど……。だから怖くてずっとママのそばにいた。そのせいでマザコンとか、色々言われた。でも、それでも構わなかった。確かにそこまで母親に執着するなんて、マザコンって言われても仕方ないし。でも……その理由が分かった」
誰に話すというのでもなく、胸の内を吐き出すような独白を一区切りさせると、今にも泣きだしそうな顔でつぶやいた。
「ママは、浮気をしてたんじゃない。俺を、親父を……家族だと思ってなかったんだ」
伊織の中で大きな何かが音を立てて崩れ落ちた。鈴が鳴るような、音楽のような、悲鳴のような音を、それが鎮まるまで聞き続けた。
崩れ落ちたのは、伊織が大事に守り続けた『家族像』だった。
泣いてしまうかと剣は慌てたが、伊織の目から涙は零れなかった。しかし泣くよりも状況は悪いのでは、と心配になった。それほどに、伊織の表情からは生気が抜け落ちてしまった。
「……だ、いじょうぶ?」
思わず背中に手を置くと、伊織がびくりと身を震わせた。瞬間、自分などに触られたくないのだろうと思ってすぐ手を引っ込めたが、いきなり伊織は堰を切ったように号泣し始めた。
「うわぁぁ! ああ……、あああーーー!」
蹲って泣き叫び震える伊織に剣は成すすべもない。松岡たちを呼んでくるべきだろうか、と思いつつ、この状態の伊織を一人にすることも出来なかった。
立ち上がって自分が脱いで置いていたパーカーを伊織に被せる。せめて敵である自分に泣き顔を見せずにいられるように、と。
そっと手を放そうとしたとき、小さな声が聞こえた。
「行かないで……」
聞き間違いかと思った。だから咄嗟に問い返してしまった。しかし聞き間違いではなかった。剣の問いに、伊織は手を伸ばして彼をつかんだ。
「一人にしないで……」
剣は、伊織からは見えないが、無言で頷いてその場に胡坐をかく。
そして伊織が自分から顔を上げるまで、ずっと手を握り続けていた。
◇◆◇
「すみません、その……俺」
数十分かかっただろうか。真っ赤な目をした伊織が顔を上げる。目だけではなく、顔も微かに赤かった。よく知らない人の前で感情を爆発させたことへの羞恥なのだろうが、そこへ気持ちが向くということは、それだけ激情が収まった証とも取れた。
「俺に気を使わなくていいよ。俺が全部悪いんだ……。一花ちゃん達、呼んでこようか?」
こちらに気を使ってくれているのは分かるが、剣が一花を親し気に『ちゃん付け』していることに伊織は気持ちがざわついた。
「そういえば、田咲さん、一花とも仲いいんですよね……」
「ん? ああ、仲がいいというか、彼女が演劇部だから…… え? まさか、一花ちゃんとは何もないよ! それは絶対だから! 俺は桐子さん一筋だから!」
慌てて全力でおかしな理由で否定する剣が面白くて、伊織はプッと吹き出す。
「すみません、そうですよね、一花なんかちびのクソガキだし」
「いや、そんなことは……。可愛いじゃないか。本気で女優目指せると思うけど」
「……女優? いや、それはちょっと……。でも、わかりました、信じます」
そして、あーあ、と言いながら、伊織は板の間に大の字に寝転がった。
「そっか、ずっと気持ち悪さがあったけど、そういうことかー。あーあ、そりゃなんも知らない俺が不安になるのは当たり前だよなー」
伊織は目を閉じて母の面影を思い浮かべる。自分の母親という欲目を除いても、桐子は十分美しかった。それが誇りでもあった。
だが、母には自分も父も知らない顔があった。それを隠し持ったまま、自分たちと家族のふりをしていたのだろう。
「俺、これからどうすればいいんだろう……」
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