第237話

 二人が部屋を出て行ってから、伊織は部屋の中ほどへ、剣と会話が出来る距離まで近づく。そして目礼してからその場に正座した。

 剣も慌てて腰を下ろす。


「急にすみません。実は午前中、一花と劇団を訪ねたんです。団長さん、植田さんに母の話を聞くために」


 桐子の息子の口から植田の名が出たことで、剣は自分の不安が的中したような気がして冷や汗が流れる。しかしここに至っては、自分の判断で伊織と対峙するしかないと腹をくくった。

 自分たちだけを残して松岡が席を外したのはそういうことだろう、と。


「初日が近いから騒々しかっただろう?」

「そうですね。一花や母と違って俺は演劇とか全然興味が無くて……、あ、すみません」

「いや、いいんだ。演劇はどちらかと言うと女性ファンが多い娯楽だしね」

「田咲さんは、母が手掛けた舞台がきっかけで役者になった、と聞きました」


 いきなり喉元に刃先を突き付けられたような驚きが剣を襲う。でもここで慌てても仕方がないと、静かに頷いた。


「そうだよ。その時の職場の先輩に連れていかれた舞台が先生の脚本でね。一度でファンになった」

「そして、植田さんの劇団に?」

「うん。俺は、役者になりたかったわけじゃない。もちろん有名になりたかったわけでもない。ただ、香坂先生の、君のお母さんが作る世界を誰よりも忠実に表現したかった」

「だから、ドラマも……?」

「最初は断ろうと思ってテレビ局行ったんだよ。でも先生が脚本担当だって知って決めた。俺は舞台役者だから映像は興味なかったんだけどね」

「どうしてですか。テレビや映画に出たほうが有名になるだろうし、人気も……」

「さっきも言ったけど、俺は人気には興味はない。先生の舞台に立ちたい、それだけで役者やってるんだよ」


 伊織に話しながら、剣は次第に自分自身と会話しているような感覚に襲われた。そして自分の望みを桐子の息子に話している、という奇妙な状況に、現実感を失いそうになった。


「ママの舞台に立つことだけ、ですか」


 伊織が行儀よく両ひざに手をそろえたまま、上半身だけ乗り出すようにしながら剣に問いを続ける。


「詳しくはないけど、ママはそんな有名な脚本家じゃない。もっとすごい舞台作る人、たくさんいるはずだ。植田さんの劇団だって、今日見た感じだとそんなに大規模じゃないですよね。本当にそれだけで、田咲さんは満足なんですか」


 伊織には剣を追い詰めるつもりは毛頭なかった。ただ、自分の中に雑草のようにはびこり続ける疑問を根絶やしにしたかった。そのためなら、焼け野原になっても仕方がないとすら思い始めていた。


「田咲さんとママの本当の関係を教えてください。本当に、脚本家と役者、それだけですか」


 伊織は剣の返答を半ば予想していた。その内容は、これまでの伊織の生活を全て覆すものだ。しかし先だっての松岡との会話で、すでに昨日までの伊織の生活は崩壊している。今更もう一つ加わったところで変わらない。


 伊織の覚悟は剣に十分伝わっていた。それが分かると、不思議と剣の緊張が解けた。

 一度瞑目すると、目を開けて微かに笑った。


「君は、顔は先生にそっくりなのに、それ以外は全然似てないんだな」

「……何ですか、唐突に」

「いや……。俺と先生の関係は、他人には話すなって言われてる。まあ、そういえば君には伝わるかな」

「口止め、ってことですか……。それって、ママが」

「違うよ」


 首を振ってそこだけははっきりと否定すると、剣は両手を床について頭を下げた。


「申し訳ない、本当に。家庭がある人だと分かっていたのに、俺は自分の気持ちを止められなかった。舞台で先生の才能に感動した。人生を変えられた。先生の舞台に出会わなかったら、俺は今頃塀の中にいてもおかしくないような生活をしていた。でもこうして人がましい人生を送れている。心から感謝している。でも、それだけじゃ終わらなかった」


 剣はゆっくりと頭を上げる。先ほどの剣幕とは打って変わって剣の土下座に気圧された伊織は驚いたまま何も言えずにいた。


「桐子さんを愛してる。彼女が俺を見限っていても、もう二度と元の関係に戻れなくても、俺にとって桐子さんは俺の最愛の人なんだ」

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