第232話
伊織が待ち合わせ場所へ駆けていくと、すでに一花が待っていた。
「ごめん! 遅れた」
「おはよ。全然遅れてないよ、走ってきたの?」
「いや、バス降りてからだから」
「遅れそうならメッセージくれればいいのに」
一花はクスクス笑って、伊織の鼻の頭の汗を指でつついた。
伊織は一花の顔を見て気が緩んだのか、気持ちとは逆に顔をしかめた。
「……どうしたの? お腹でも痛い?」
首を振って否定する伊織の手を取って、近くのカフェに入る。セルフサービスで注文したドリンクを持って伊織の前に出すと、伊織はカップではなく一花の手を握った。
「俺、さっきママに、千堂家のこと教えてほしいって言ったんだ。でもママ、すごく辛そうで……親父からも止められて……。ママは話すって言ってくれたんだけど、でもあんな辛そうなのに、俺、聞いていいのかなって思って……」
いつになくたどたどしい伊織の話を、一花は黙って聞き続ける。その間も伊織は一花の手を握ったままだった。
「どうしてママは、あんなの辛そうな顔したのかな。聞いちゃいけなかったのかな……。ママのこと知りたいって思った。でも……」
伊織はそこまで言うと、下を向いて黙り込んでしまった。
一花は伊織の手をそっと外すと、両手で伊織の頬を挟んで前を向かせた。
「おばちゃんは、なんて言ったの?」
「……すごく辛そうだった。横からしか見えなかったけど」
「そうじゃなくて。おばちゃんの言ったこと、そのまま教えて?」
伊織は一花の目をじっと見つめ返しながら、朝の母とのやり取りを思い出す。
『隠すつもりはなかったけど、あえて話す必要もないと思ってたわ』
そのまま一花に伝えると、しっかりと頷き返した。
「今まで私も伊織くんも、聞いてこなかったからだよね。もしかしたら聞けば話してくれてたのかもしれない。ただ……、もう私たち、自分の親の言葉が全部だと思えないところまで来ちゃってる。私もパパから聞いたとしても、そのまま信じることは出来ないと思う。それならさ」
一旦区切って、もう一度頷いた。
「やっぱりちゃんと調べようよ。私たちが納得できるところまで。おばちゃんのその言い方だと、隠したいことがあるわけじゃなさそうじゃない? だったら、怖いことはないよ、きっと。ね?」
伊織を安心させるように優しく背を押すような一花に、伊織は気が付けば動揺が収まっていた。そして一花の手を取って、感謝と愛しさを込めて手の甲に口づけた。
「え、えええ? い、い、伊織くん??」
慌てる一花以上に、たまたまその現場を見てしまった周囲のほうが照れて目をそらしてしまうような光景だった。
◇◆◇
「よ。よく来たな。初日近くて騒々しいけど、まあ入れや」
一花の案内で植田の劇団の稽古場ビルを訪ねた。植田の言葉通り、大勢の大人が出たり入ったりしている。大きなトラックも停まっていた。
「お邪魔します。忙しい時にすみません。えっとね、伊織くん、こちらがおばちゃんの大学の先輩で……」
「植田だ。香坂の息子だってな。よろしくな」
「香坂伊織です」
ぺこりと頭を下げると、植田は右手を差し出す。大きくて肉の厚い手としっかりと握手を交わす。
「ちょっとあっち座って待っててくれ。あ、サーバーから好きなもん飲んでくれていいから」
「ありがとうございまーす」
一花は慣れた様子でウォーターサーバーへ向かっていき、自分に紅茶、伊織にはコーヒーを入れて戻ってくる。
「邪魔しちゃったかな。初日近いって、たぶん忙しいよな」
「まーね。でも団長さんがいいって言ってくれたんだから甘えよう。話が終わったらすぐ帰れば邪魔にはならないよ」
そして一花は、忙しなく行き来する団員と挨拶を交わす。中には伊織が桐子の息子と知って、興味深げに近づいてくる者もいた。
「さすが、先生の子。イケメンだわー」
「君は演劇やらないの?」
「こんなところでうろうろしてたら、うちの団長にスカウトされちゃうよ?」
「おい、人を誘拐魔みたいに言うな」
団員達の背後から植田の野太い声がかかる。キャーと言いながら団員が散って行ったあとは、一花、伊織、そして植田の三人だけになった。
「えっと、香坂について知りたい、って言ってたな。俺が知ってることだけでいいか? あと、お前らと関係なさそうなことは話さないけど、それでもいいか?」
「はい、十分です。よろしくお願いします」
二人同時に頭を下げる。
植田は頭をがりがりかきながら、口を開いた。
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