第231話

 しばし、沈黙したまま桐子と伊織は向かい合い続けた。

 そして、桐子から先に口を開いた。


「そうね……。もう亡くなっていても、伊織たちから見れば祖父母だものね」


 言いながら、苦いものが込み上げるのを桐子は押し返そうと努力した。何十年も前に亡くなったとはいえ、両親は桐子にとって脅威のままだった。


「隠すつもりはなかったけど、あえて話す必要もないと思ってたわ」

「……どうして?」

「それは……」


 桐子は口ごもる。あの両親の実態を息子に話して聞かせるのか。とてもじゃないが話せるものではなかった。そうした記憶しか桐子は持ち合わせていなかった。一方的に自分を傷つけ苦しめることしかしてこなかった両親と、大事な息子を結び付けたくなかった。

 祖父母として思い出を話して聞かせることで、伊織まで苦しめることになると思っていた。そして『いい両親だった』と噓をつけるほど、桐子の傷は浅くない。


 どう答えればいいか迷っていた時、ダイニングの入り口に広瀬が現れた。


「ママを苦しめちゃだめだよ、伊織」


 唐突に父の声が聞こえたことだけでなく、その言葉にも驚いて伊織は勢いよく振り返る。


「苦しめるって、でも……」

「伊織の気持ちはもっともだ。でもさ、ママの顔見ればわかるよね」


 伊織は促されて桐子を見る。とっさに横を向いたらしいが、辛そうに歪んだ表情は見て取れた。


「ごめん、俺……」

「いいのよ、私が悪いの。伊織は謝らないで。……出かけるんでしょ? 時間、大丈夫?」


 伊織ははっとしたように時計を見て、慌てて立ち上がる。夕方には帰るから、とだけ言いおいて走って出て行った。




 ダイニングには、広瀬と桐子が残った。

 広瀬が寝室に戻る様子が無いので、桐子が体調を伺う。


「もし食欲あるなら、何か食べる? 昨日と同じメニューがいい?」

「ああ。でもその前に、今の話の続きがしたいな」


 広瀬はゆっくりとした動作と話し方で、さっきまで伊織が座っていた椅子に腰を下ろす。桐子は一旦逃れられたと思った罠にもう一度捕まった兎のように、身動きが取れなくなった。


「……今の話、って」

「とりあえず、君も座ったら?」


 桐子は逆らえない何かを広瀬から感じながら、濡れた手をエプロンで拭って向かい側に座った。


「僕も、ずっと君に聞こうと思っていたんだ」

「……何、を?」

「君が、周囲が言うほど恵まれた環境では育っていないことは、知っている。結婚する前に教えてくれたよね。ご両親、特にお母さんからは厳しく育てられたって」


 桐子は目をつぶって、小さく頷いた。思い出したくない母の面影が勝手に浮かび上がる。桐子を見る目はいつも厳しく、笑っている顔などついぞ見たことがなかった。


「お祖母さんが亡くなってからはお祖父さんとも疎遠になって、頼れる人はお義兄さんだけだって言っていたね」


 もう一度、小さく頷く。桐子が知っている人の温かさのほとんどは、文哉から与えられたものだった。


「だから、お義兄さんは君にとって特別な存在だ、って。……うん、君の生い立ちを聞けば、確かにそうなるんだろうね。それにあのお義兄さんだ。恰好いいし何でもできて頼りになる、映画に出てくるヒーローみたいな人がすぐそばにいたら、そう思うのは少しも不思議じゃない」

「……それが、どうしたの?」

「当然だって、自分に言い聞かせ続けてきた。そもそも、僕なんて手が届かないような血筋の二人なんだから、僕が理解できない絆があっても不思議じゃない。夫婦なんて、婚姻届一枚の関係だ。それと比べたら、生まれた時からずっと一緒にいるお義兄さんに僕が敵うはずがないんだよね。それでも……君は、妊娠が分かったとき本当に喜んでくれた。だから僕は……僕は」


 広瀬は誰に向かって話しているのか、すでに桐子を見てはいなかった。それでも言葉は止まらない。そして一言も聞き漏らさないよう注意深く聞いていたが、桐子には広瀬が何を言いたいのかがさっぱり分からなかった。


「本当にどうしたの? 兄さんと何かあったの?」


 桐子の声に、広瀬ははっとしたように顔を上げる。そして小さく首を振った。


「何かあったのは僕じゃない。……君だろう?」

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