第230話
翌朝、伊織は朝食をとるためにダイニングへ向かったが、そこにはやはり父の姿はなかった。
「おはよ、ママ。親父、まだ無理っぽいね」
「おはよう。そうね……、熱はもう下がってきてるみたいだけど、起きるのは辛いみたい」
「そっか。……じゃ、例の相談は夜か明日にするよ。朝飯食ったらちょっと出かけてくるね」
桐子は頷いて、伊織と自分の分の朝食づくりに取り掛かった。広瀬がダウンしている今、逆に息子がしっかりしてくれていることが嬉しかった。
「……どうしたの、ママ。なんか笑ってる」
「だって、伊織が急にしっかりしてきてるから、嬉しくて。一花ちゃん効果かしらね」
「ちっ、違うって! 親父が倒れたら心配じゃん、だから気使ってるだけだよ!」
はいはい、と流して、ベーコンエッグにトマトを添える。背後から『トマト要らない……』とぼやきが聞こえたがそれもスルーした。
「ねえ伊織。もし一人でこっちに残るとしたら、私がパパのところへ行ったら一人暮らしになるのよね。あなた、料理とか掃除や洗濯、全部出来るの?」
目玉焼きに伸ばそうとした伊織の箸を持つ手が固まる。その様子から、桐子はやれやれ、とため息をついた。
「やっぱり、考えてなかったのね」
「でも……ほら、メシはコンビニとかファストフードとかあるし、洗濯機の使い方覚えれば、何とか……」
「ごみ捨ては? 庭の手入れは? 町内会の当番や回覧板は?」
「……なんとか、する」
「来年受験生なのに?」
伊織は頭を抱える。一花のため、ひいては自分のために日本に残ろうと決意したが、自分には見えていなかった生活上の問題が山積だった。
「ママも、反対なの?」
「そんなことないわ。伊織がちゃんと将来を考えて残るって決めたなら応援したい。でも、応援するにしても、あなたは出来ないことが多すぎるもの」
桐子は本気で困っているように見えて、伊織は逆に申し訳なくなる。
「少しは出来るようになったと思ってたんだけどなぁ」
「それって、一花ちゃんがいたからでしょ?」
「そうかも……」
伊織は目の前のベーコンエッグとスープを見つめる。いつもなら意識することなく口に入れているそうした料理は、自分は旨いかどうかだけを考えればよく、どうやって作るのか、どういう手順なのか、材料は何か、後片付けは、といった裏側の作業について考えたことはほとんどなかった。
改めて食べれば、美味しいと感じる。母や一花は、これを毎日やっているのだ。
「うーん、やっぱり無理かなぁ。でもなぁ……」
「まあ、まだ時間はあるから、ゆっくり考えましょ。最悪の場合私と一緒のタイミングで行ってもいいんだし」
「……親父一人にするの、心配じゃないの?」
「今回みたいな体調不良は心配ね。でもそれは、私とパパが考えることよ。伊織が心配することじゃないわ」
桐子は笑って、伊織が食べ終えた皿を片付け始める。普段ならすぐ納得する場面だが、今日は何故かそれが出来なかった。
「前にも言ったこと、ちょっと蒸し返すかもしれないけど……、ママって、ちゃんと全部話してくれないよね。なんで?」
桐子は驚いて、片付けの手を止めて振り返る。そこには打って変わった伊織の深刻そうな顔があった。
「本当はずっと気になってた。ママってどんな人なのかな、って。千堂家、って、なんなのかな、って」
桐子の心臓が、ドン、と大きく打つ。自分の生家にもかかわらず、桐子の中で千堂は触れたくない傷だ。
「ママと……伯父さんも謎だらけだよ。ママのことは好きだよ。伯父さんのことも、しばらく一緒に住んでみて、前みたいに緊張しなくなったし頼りになる人だって分かってる。でも、じゃあどうして、おじいちゃんたちのこととか何にも話してくれないのかな、とかさ」
伊織は自分で話しながら、誰かが自分の口を借りて勝手にしゃべっているような不思議な感覚に襲われた。しかしそれでもしゃべるのを止めようとしないのは、これが本当に自分が母に言いたかったことだった、と自覚してもいたからだった。
「俺、本当は知りたいんだ。ママのこと全部、千堂家のことも、全部」
どう答えればいいかわからず、桐子は伊織を見つめたまま口ごもってしまう。
そして二人の会話を、広瀬は階段の上から黙って聞き続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます