第229話

 呼び止められた剣は、驚いて振り返る。そして慌てて首を振って否定した。


「いえ、俺、私はたまたま部屋を使わせてもらっているだけで……」

「下宿されている、とか?」

「いえ。その……、このお宅の持ち主に紹介してもらって、一時的に昼間使わせてもらっているだけです。えっと、もしここに御用なら、世話人さんがいますから呼んできましょうか?」


 剣の提案に、男性-各務-は静かに首を振る。


「いえ、大丈夫です。とてもご立派なお屋敷なので見入ってしまっていただけなので……。では、失礼します」


 そう言ってほほ笑むと、そのまま屋敷の入り口とは逆方向へ去って行ってしまった。


 剣は首をひねりつつ、石橋の妻に頼まれた通りに敷地の周りを一周した。しかしほかに人影もなく、そのまま屋敷内へ戻って行った。




 駐車場へ戻った各務は、今しがたの青年に見覚えがある気がして記憶を辿る。

 そして、桐子に声をかけた時に撮影クルーに囲まれていた新人俳優だったことを思い出した。

 ということは、彼にこの屋敷を紹介したのは文哉ではなく桐子なのだ、と判明すると、天を仰いで呆れたようなため息をついた。


◇◆◇


 広瀬は夕食は何とか食べられたものの、考え事のせいで箸が進まず、まだ体調不良が続いているのでは、と心配した桐子がそばを離れようとしなかった。

 気遣いはありがたかったが、桐子の顔を見ると考えたくない事実が広瀬の困惑を深める。一人でゆっくりしたいから、と、同室で寝ることも拒んだ。


「君にまでうつしたら大変だから。本当にごめん」

「そんなこと……。じゃあ、私はあっちで寝るけど、何かあったらすぐ声かけてね。夜中でもいいから」


 何の疑いも持たず部屋から出ていく桐子に、広瀬は胸が痛む。その原因が桐子と義兄にあることは分かってはいても、ことを隠していた自分も同罪だと思った。


 桐子が部屋を出るときに室内灯を消したので、部屋は真っ暗だった。耳を澄ますと微かに家族の生活音が聞こえる。

 今は体調不良で誤魔化しているが、明日になればそうもいかない。あまり長引けば病院を勧められるだろうが、治ってから行っても要らぬ恥をかくだけだ。


 明日からの週末。伊織からの相談をどう乗り切ろうか。いや、どうやって二人を引き離せばいいのだろうか。

 誰一人として幸せになれないことのために考えを巡らすことの無意味さに、再び本当に体調が悪くなりそうで、微かな吐き気を感じていた。


◇◆◇


『やっぱり……まだちゃんと決まったわけじゃなかったんだね、こっち残ること』

「しょうがねえだろ、色々バタついてたし、親父も毎日夜遅くてさ」

『おじちゃん、大丈夫?』

「昼間は元気そうだったけどな。まあ明日から土日だし、それだけ休んだら元気になるんじゃね」

『そっか。うちのパパも退院した次の日から会社行ってたよ。大人って頑張り過ぎだよね』


 そうだな、と頷き合う。いつのまにか伊織と一花は毎日小一時間は電話で話す習慣が出来ていた。

 先週までは扉を開ければそこにいた。それと比べれば、一時間でも電話越しの会話は物足りなく感じてしまう。


「なあ……、もし明日親父がまだ本調子じゃなかったら、例の件、再開しないか?」

『例の、って、千堂家について調べてた、あのこと?』

「うん。とりあえずお寺と本家と、あと伯父さんの会社は見に行っただろ。後はどうしようか……」

『おばちゃんのこと、聞きに行ってみる?』

「聞くって、誰にだよ」

『あのね』


 そういうと、一花は植田の話をした。大学時代から一緒、ということは、環とほぼ同じくらい桐子について知っているのでは、という見立てに、伊織は同意した。

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