第227話

 松岡と別れて文哉がオフィスへ戻ると、各務が訪ねてきているとスタッフに教えられた。

 応接室へ向かうと、扉が開くのと同時に各務がソファから立ち上がった。


「アポイント無しで申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ席を外しておりまして」

「遅くなりましたが、無事ご退院おめでとうございます」


 言いながら、見舞いの品らしき紙袋を手渡してきたので、恐縮して受け取る。そして各務に着席を勧め、自分も腰を下ろした。


「入院中は何度もお見舞いに来てくださり、ありがとうございます」

「とんでもない。比較的自由が利く身ですので。今日も近くまで来たついでです」


 ニコリ、と微笑む各務から目線を外す。ある意味渡りに船の訪問だった。


「丁度よかった、例の三鷹の物件についてなんですが」


 微かに各務が身を乗り出した。


「実はもうおひとりの松岡さんが、ご辞退されまして。で、もし各務さんがよろしければ、そのまま決定させていただければ、と思うのですが」


 各務は、唐突な展開に驚いた。少し前に松岡と会って話した時以来、彼とは顔を合わせていない。いつの間に翻意したのか、と、首をひねる。各務の印象では、そう簡単に黙って手を引くような男に見えなかったのだ。


「それはとてもありがたいお話ですが……。驚きました。松岡先生もあの物件にはとても興味を示しておられたので」


 文哉は小さく頷く。


「松岡さんも一度病院へ来てくださって、その時にたまたま別の物件をご紹介したんです。そうしましたらそちらのほうがご希望に叶うようで」


 文哉は立ち上がって、抽斗から封筒を取り出し、各務へ差し出す。


「改めて、今回の物件の概要と取引条件です。再考いただいて、もしご辞退、というのであれば無論構いません」


 各務は書類を受け取って、自分のカバンに入れた。


「ありがとうございます。こちらの関係者とも相談の上、近日中にお返事させていただきます」


 では、と言って立ち上がる。退室した後のテーブルを見ると、お茶には手を付けられていなかった。


◇◆◇


 各務は自分の車に乗り、エンジンをかける前に文哉から受け取った封筒を取り出す。土地家屋の面積、現所有者である文哉の名前、図面などが記載された冊子と、文哉が作成したのだろう取引希望価格と引き渡し後に家屋を解体することを条件とする一文が添えられた別紙を膝の上に広げる。

 価格は実際の評価額よりは相当安くなっているだろう。土地に関しては路線価を反映しているだろうが、本来は文化財並みの価値がある家屋につてはほぼゼロ価格だった。

 普通なら文哉を言いくるめて取引を完了させ所有者を自分にした上で、家屋はそのまま転売する、と言った方法も考えるだろう。

 しかしあの文哉を、千堂家を敵に回すほどの価値はない。それ以前に各務の目的は転売益などではない。


 近日中に、と言った手前、いつ頃までに返答しようかと、スマホでカレンダーアプリを起動する。

 そしてあとひと月余りでクリスマスだということに気が付いた。


◇◆◇


 広瀬は桐子から聞いた話で受けた衝撃で、再度体調が悪くなり再び寝込んでしまった。

 心配した桐子が何度も寝室へ様子を見に行くが、口を利くのも辛いかのように無言で頷いたり首を振ったりするだけだった。

 

 しばらくは静かに寝かせようと、寝室から出てリビングへ戻ると、伊織も心配そうな顔で桐子を見上げる。


「親父、しんどそう?」

「うん、昼間起きてたの、やっぱり無理してたのかも」

「そっか。じゃあやっぱり例の相談はまた今度にしたほうがいいね」

「ごめんね。ママだけでよければ聞くから。決めるのは三人で相談するときになるだろうけど」


 わかった、と言うと伊織も自室へ戻った。

 

 


 一人、真っ暗な寝室で横になっている広瀬は、今朝とは違う体調の悪さに自分でも驚く。朝は本当に体が重かった。だが今は、体の重さよりもまとまらない思考に頭を抱えていた。


(伊織と、一花ちゃんが……)


 従兄妹同士という関係から、はあり得ないと高を括っていた。しかし、人と人はどう転ぶかなど分からない。あり得ないものなどあり得ないのだ、ということにどうしてもっと配慮しなかったのだろうかと、布団の中で自分の頭をかきむしる。


 しかし誰にも相談などできない。もしできるとしたら、それはもうこの世にはいない、その人だけだった。

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